2020年12月29日火曜日
吉田拓郎「風の街」~東京に吹く風
2020年12月27日日曜日
吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」って、誰のこと?~「風になりたい」の「私」は誰でしょう【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.6】
誰がアホやねん
吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」は、引退の噂が広がっていた1985年の発売。アルバムのタイトル曲です。アルバムで愛した女を「馬鹿」呼ばわりするなんてモラハラと言われかねませんね。
関西では、「アホ」は愛されるべき存在で、褒め言葉の一つです(ホンマか?)。また、女子に「もー、バッカねー」なんて言われるのはちょっと愛情を感じて嬉しかったりしませんか?
この曲の「馬鹿」にも、いくらかの愛情は含まれているような気がします。
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「馬鹿」は誰でしょう
「死んでください」と女性に言われる状況がどういうものか、当時はよくわからなくて、あまり考える気にもなれなくて、この曲について考えることを放置していました。初めてこの曲を聞いた時には、「どーせ森下愛子とよろしくやってんだろー」って感じで、痴話げんかレベルだと考えていました。あるいは、当時の拓郎は引退をほのめかしていたし、ジャケット写真がエレキギターなので「あいつ」は人ではなく、「音楽」ではないかなどと邪推していました。舞姫(1978)にもこのモチーフは使われています。歌詞は松本隆です。
「死にましょう」 ため息まじりの冗談に 「死ねないよ」 年月だけがあとずさる「死にましょう」 女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」 淋しさだけが押し黙る
今もなお、吉田拓郎に死を迫る「馬鹿」が誰なのかはきちんとは分かっていません。しかし、最近になって、「馬鹿」は森下愛子ではなく、浅田美代子なのかもしれないと思うようになってきました。
「俺が愛した馬鹿」の前年「フォーエバーヤング」(1984)の「君が先に背中を向けてくれないか」では、
明るい笑顔が 戻る日はすぐ来るさ
だから泣かないで 僕を見つめないで
君が先に背中を 向けてくれないか
と懇願する拓郎。「君」はおそらく当時の浅田美代子夫人。「俺が愛した馬鹿」でも「背中を向ける」というフレーズが出てきています。
とうとう俺は あいつに 背中を向けた「君」と「あいつ」が同一人物だとしたら「俺が愛した馬鹿」は美代ちゃんとの事を歌っていることになるのかな・・・と考えています。
「君が先に背中を向けて」欲しかったのだけれど、背中を向けたのは、俺。じゃあ「馬鹿」は美代ちゃんになるのか?美代ちゃんが「死んでください」とか、そんなに重い事を言うかなー?「フォーエバーヤング」(1984)には美代ちゃんとの離別が色濃く漂っており、それが「俺が愛した馬鹿」(1985)へと続いていても不思議ではないです。
「おれが愛した馬鹿」を初めて聞いた時には「森下愛子だー、死んで下さいと迫ってきた―、コワー!」と思っていたのだけれど、どうなんだろう???????
いや、オケイさんの可能性もあるか??・・・ないか。
時間に身を まかすぐらいだったら行きずりの男に 抱かれた方がいい
褐色の瞳は いつも燃えていた
何かを必死になって 求め続けてる
この一節にも混乱。行きずりの男に抱かれたいほど性欲が強い馬鹿なのか。そんなに性欲を燃やしているのか?そもそも、「時間に身を まかすぐらいだったら行きずりの男に 抱かれた方がいい」と言っているのは「馬鹿」(=あいつ≒美代ちゃん?)なのか「作詞者」(=拓郎)なのか??
歌詞全編に謎のフレーズが埋め込まれていて、「馬鹿」が誰なのかを考えなければ到底読み解くことができません。
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愛されたいから震えている「私」は誰でしょう
この「俺が愛した馬鹿」の謎は同アルバムのラストに置かれている「風になりたい」の謎にも通じます。「風になりたい」を新レーベル「フォーライフ」の新人川村ゆう子に提供したのは1976年であり、四角佳子さんとの離別前後に作られた曲であると考えられます。おそらく当時は、次の妻となる浅田美代子との付き合いがあった期間であると考えられます。そうすると「私を離した時の隙間風」の「私」が美代子さんということになります。
1976年、街中を濡らした長い雨の後に「もうすぐ朝です、少し寒い」というシーンは妄想なのか、実話なのか。2人(拓郎と美代子?)の躊躇・戸惑いが「愛されたいから震えていました」「抱きしめられてもあなたをつかめない」「追いかけたくても一人で残ります」に表れているのか?夜明けに男女の話が傘をさして歩いているって相当シュール。男性が既婚者の拓郎であるとすると、さらに情景の緊張感が増します。追いかけたいのだけれど、倫理的にいけないことは十分に分かっていて、逡巡してしまう2人。
アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)が「風になりたい」で閉じられている意図を考えずにはいられません。拓郎は美代ちゃん(馬鹿)との決別をこのアルバムのラストに記し、捧げたのではないかと。(当時、森下愛子とはうまく行っていなくて、一旦、別れたのかもしれないという考え方も可能かもしれませんが・・・)
美代ちゃんとの離婚は、なぜかテレビメディアで会見をして淡々と長々と語られました。当時の芸能界のしきたりにハマっていて、拓郎らしくないなと。「酷な発言」もあり、引退状態だった美代ちゃんにとっては反論や訂正を述べる機会がなく、アンフェアではないかと感じました。(オケイさんとの時にはラジオで直接リスナーに語るという形をとっています)
アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)は離婚から1年を経て、拓郎の心の底にあった美代ちゃんへの悔恨の想いを反映しているような気がしています。当時の私は、「作曲能力が衰えたので昔の名曲を引っ張り出してきた」のではないかと単純に考えていました。しかし、打ち込みサウンドが無機質に鳴り響きながら終わる「風になりたい」を改めて聴くと、「引退(拓郎はこの時期、直後のつま恋コンサートでの引退をほのめかしている)」を含めた当時の拓郎の気分の重さが見えてくるような気がします。
2度目の隙間風
1976年に吹いていた美代ちゃんとの隙間風は結局のところ結婚という選択をしたことによって埋められます。「私」(美代子)は逡巡しながらも、「私も今すぐ風」となり拓郎を追うことになります。
しかし「気分は未亡人」(1984)の中で、「私」(たぶん美代子)は、「あなたが風なら私もそうしておかしくないわね」と、開き直ります。「あなたは古い」ともう拓郎を追いかけようとははしません。「気分は未亡人」のドライで突き放したような歌詞と曲調・アレンジには2人のパサパサした関係を感じさせられます。隙間風が再び吹いて拓郎は美代ちゃんの元を「通り過ぎ」て戻ってこないことになってしまいます。2人は再び吹く風に舞い、別々の方向へ流れていきます。
2つの「風になりたい」を比べ、その間の拓郎と美代ちゃんのことを考えると、せつな過ぎて・・・
それにしても、「長い雨の後」というフレーズは、
「僕のそばに妻がすわる 傷ついた心開き 長い雨はもうすぐ終わる僕たちは肩を寄せる」(長い雨の後に:1973)に使われています。このモロオケイさん(妻)とのモチーフを美代子に使うのはなんだか失礼な気がします。
じゃあ、「風になりたい」の「私」がオケイさんなのかと言われると、それはー、、、違うのかなぁ。子供もいるのに「もうすぐ朝」つまり暗いうちにおけいさんと街をさまよったというのは何だか、変だなあ。「私」がおけいさんだったらそうとう暗い演歌的なシチュエーションになりますねえ。オケイさんの事を書いた曲(1976)とすると、それをわざわざ「俺が愛した馬鹿」(1984)のラストに持ってくるのは変だなあ。
もしかすると「つかめないあなた(拓郎)」に「戸惑うオケイさん・美代ちゃん」の両方をモデルにしているしているのかもしれないです。まさかのダブルキャスト。女性にとって男は風のように通り過ぎる存在であると。
「風になりたい」のメロディーは、悲しみを感じると同時に何だか愛が溢れていて、どうも躊躇する美代ちゃん、揺れる美代ちゃんの心情を表している気がします。
美代ちゃんが歌う「風になりたい」を妄想しています。もし、あの不安定な歌唱力でボソボソと美代ちゃんがこの曲を歌ったら、泣いてしまいそうです。
「風になりたい」の「私」が美代ちゃんなのかオケイさんなのか。
「俺が愛した馬鹿」の「あいつ」が美代ちゃんなのか、森下愛子なのか。
それによってはずいぶん違う話になってしまいます。「誰」に何故歌ったのかによってずいぶん意味が違って聴こえてきます。曲の発表からどちらも数十年が経っていますが、私はどちらも美代ちゃんではないかと思うようになりました。
「もしかしたら3人の妻の誰でもないかもしれない」「どこかのオネエチャンとの話?」とか??妄想が止まらない―!
2020年12月26日土曜日
吉田拓郎の名曲「シンシア」にツッコンでみた
吉田拓郎自身歌唱の作品で一番最初に感銘を受けたのが、「シンシア」(1974/ 7/1)でした。今は竜飛崎の方が良いと思うこともあります。どちらも名曲ですよね。
「Live73」(1973)と「人生を語らず」(1974)の間に出されたシングルということになります。まさに、ミュージシャンとしての吉田拓郎の絶頂期ですね。
しかし、ずっと混乱しています。
①「君の部屋のカーテンやカーペットは色褪せてはいないかい」
って、余計なお世話な気がします(まあ、多分、「君は色褪せないでね」という意味なのかな)。
②「君の部屋に僕一人いてもいいかい」
って、シンシア(≒南沙織?)にとってはストーカーだし、奥さん(おけいさん)にとっては浮気でしかないww
③「人ごみにかくれて肩をすぼめて自分を見つめたとき 過ぎ去った夢が崩れ落ちる 長い旅が終わる」
ここ、大好きな割に、よくわかんないです。「旅」は多分「心の旅」(笑)でもあるのだろうけど、20代で夢が崩れて旅が終わるのはえらい儚いなあと。
④リアルシンシア(=南沙織)あるいは(詞の上での)妄想シンシアって、拓郎や(詞の上での)主人公とどういう関係なんだろう?
⑤「君の腕で眠りたい」
とあるけど、それは実現可能な願いなのか、それとも妄想に近い願望なのか?
それとも既に眠ってみたことあるんか?
⑥「君の腕で眠りたい」
「人生を語らず」(1974)には当時の妻、四角佳子さんとの確執を感じられる曲がおさめられており、翌年には離婚という結果になっています。オケイさんは、いったいどんな気分でこの曲を聞いたのでしょうか・・・。
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うー、45年来の疑問と妄想が暴走しています。
何もかも愛ゆえの事だったと言ってくれ(永遠の嘘をついてくれ:1995)
それにしても、メロディーもアレンジも歌唱も、秀逸ですね。
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かまやつ:シンシア、帰る場所も
かまやつ:シンシア、ないのなら
吉田:シンシア、君の腕で
吉田:シンシア、眠りたい
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という、終盤の拓郎のカットインプレーも素敵です。何度聞いても、やや甘ったるいかまやつさんボイスに、ちょっとコワイ拓郎ボイスが割り込んでくるところでぐっと全体がしまってカッコイイです。
同時に、シンシアの腕の中で眠るのは、「俺だーーーっ!」と言わんばかりの当時の拓郎の勢いが可笑しくって、可笑しくって。
「ここは俺に歌わせろ」って感じだったのでしょうかw
2020年10月25日日曜日
吉田拓郎「あゝ青春」の八つ目は何を意味しているのか
拓郎の歌詞は、わからんままでムードで聴いていることも多いのですが、時々引っかかって、こだわりたくなってきます。
「ああ青春」の ------------------------- いつつ 生きてる 後味悪さ 胸にかみしめれば 泣ける海 やっつ やめるさ 抱き合っても 心は遠ざかる 安い宿 ------------------------- って、何の事か?何をやめるつもりなのか?? もう、何度聞いたかわからぬこの曲、この歌詞。 ①「やめる」が直後の「抱き合う」ことをやめる?なんで抱き合うのをやめるのか?歌詞全体を見ても女性との決別を歌っているようにも思えないのだけれど。
振り返っていても、仕方ない。生きていくしかない。「青春は苦しくても息切れ手も進むしかない」につながるのか。
明日からはちゃんとシティーホテルで?
ごちゃごや言葉を並べるという「野暮なことをよそう」と言っているのか。
「一つ一人じゃ寂しすぎる 2人じゃ息さえもつまる部屋 三つ見果てぬ夢に破れ 酔いつぶれ夜風と踊る街 悲しみばかり数えて 今日も過ぎてゆく」が1番の歌詞。思い悩み、さまよい、立ち止まることから抜け出そうという意味での「やめる」なんでしょうか。
「やめること」自体が大切である、という思想を表しているのか。
スティーブジョブズの名言「何をしないかを決めることは、何をするのかを決めるのと同じくらい大事なことだ」のような話?1人は寂しく2人はしんどい。夢に破れた今の自分を捨てて(やめて)また夢を見る?
2020年10月3日土曜日
吉田拓郎「望みを捨てろ」の謎を追いかける【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.5】
狂気の1973年
名盤「LIVE73」においてラストを飾る「望みを捨てろ」は当時の吉田拓郎の複雑な立場を表している不思議な曲です。作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎。
1970年代、拓郎はとんでもない乱気流の中を突き進んでいました。「LIVE73」前後の拓郎の動きも実に目まぐるしいのです。1973年の出来事を簡単に記すと・・・
1月 新六文銭結成
5月23日 金沢事件(4/18の新六文銭ライブの後)により逮捕→ 逮捕によって新六文銭は事実上の解散
6月1日 アルバム「伽草子」発売
6月2日 不起訴となり釈放
6月3日 神田共立講堂のコンサート
(「LIVE73」のMCで「魔の神田共立講堂」と拓郎が語る)
11月26日 中野サンプラザ1日目
11月27日 中野サンプラザ2日目
12月21日 「LIVE73」発売
12月には四角佳子との間に第一子「彩タン」(長女)誕生。拓郎にとって唯一の実子となる。
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「LIVE73」は当時のロックコンサートとしてのクオリティの高さで群を抜くミキシングで日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムだったわけで、「望みを捨てろ」がアルバムでは歌唱中にフェイドアウトする形でアルバムは終わっています。このアルバムにはカセットテープ版があり、完全版ロングバージョンが入っています。
レコードバージョンは、拓郎の歌唱途中でフェードアウトしていたので、カセットバージョンの存在を知るまでの間、「人間なんて」みたいに延々と1時間ぐらい「のぞみをすてろ~~~~」と、歌い続けていたのかなと勝手に妄想していました(笑)。
中野サンプラザ公演は2夜連続
「LIVE73」は2日間の中野サンプラザ公演からのチョイス。1日目と2日目は拓郎の強い意向により、大きくアレンジの変更があったそうです。アレンジャーの瀬尾一三ともかなりの衝突があったそうですし、バントだってそれはたいへんな事だったでしょう。今はもちろん、当時でも考えられないですね。
「望みを捨てろ」も1日目と2日目とも、エンディング、歌い回しは明らかに違うし、エンディング前の4番までの歌詞部分の歌い回しも違います。アルバムに入っていない方の貴重な音源も残っていて、アルバムにチョイスされたのがどちらなのかは、今のところ不明です。チョイスされなかった音源は、別モノみたいに違います。比較的ラフな感じで、歌われています。
アルバムにチョイスされている「望みを捨てろ」のバージョンには狂気を感じさせられます。カオスを予告するようなゆったりとしたーホーンから始まり、最後は拓郎の絶叫でフェードアウト。拓郎自身がライナ―ノーツで「狂気の1973年」と表現しています。まさに怒涛オブ怒涛。なので、チョイスされたのは1973年をしめくくる「2日目(11/27)」なのかなと勝手に思っていたのですが今のところ真相は分かりません。
http://mushi646.blog.fc2.com/blog-entry-528.html#more
によると、ボーカルは後から差し替えられたようです。それが、後の「『望みを捨てろ』だけはまずかった」という発言の原因かもしれないと。自分としてはボーカルを後から差し替えたことに、特に異議はないけれどなあ。中野サンプラザを押さえて前後のコンサートのバンドとは違う特別編成のバンドでリハーサルを1か月ぐらいかけてやって、保険として事前に差し替え音源も用意できていたそうです。下のリンク先に素晴らしく詳しい記述があります。
http://mushi646.blog.fc2.com/blog-category-31-2.html
作詞:岡本おさみ
あくまで「望みを捨てろ」の作詞は岡本おさみです。ライブのセットリストに加えた曲の歌詞の全てが拓郎の心情を完全に反映しているわけではないでしょう。それでもアルバムのラスト、いや、1973年のライブの(ほぼ)ラストを飾ったこの曲が当時の拓郎にとって深い意味を持つものであったことは間違いないと考えてよいでしょう。
望みを捨てろ (Live)
作詞:岡本おさみ
作曲:吉田拓郎
ひとりになれない ひとりだから
ひとりになれない ひとりだから
妻と子だけは 暖めたいから
妻と子だけは 暖めたいから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりになれない ひとりだから
ひとりになれない ひとりだから
我が家だけは 守りたいから
我が家だけは 守りたいから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ふたりになりたい ひとりだから
ふたりになりたい ひとりだから
年とることは さけられぬから
年とることは さけられぬから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
最後はいやでも ひとりだから
最後はいやでも ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりになりたい ひとりを捨てろ
望みを捨てろ ひとりを捨てろ
ひとりになれない ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
年とることは さけられぬから
ひとりになりたい ひとりを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ふたりになりたい ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりを捨てろ ひとりを捨てろ......
鬼気迫るシャウト
私は高校時代にこのアルバムを約5年遅れで聴いています。多感な時期に(笑)、あんなに鬼気迫る感じで「望みを捨てろ」と拓郎に教唆されたので、ついつい、「え?あ?ん?そうなん?」って感じで、大望・私欲を中途半端に捨ててしまい、倒錯した人になってしまいました。
「なんか脳天・全身をヤられたなー」というのが10年ぐらい続きました。
たいていの大人や作家は「望みを捨てるな」「あきらめるな」「希望を持って」と言っているのに、なんでこの人はわざわざアルバムの最後で「捨てろ」と連呼しているのだろう。そして、それが刺さるのだろうか?理屈を超えた不思議感に包まれました。
「妻と子」「我が家」は守るべきで捨ててはならず、だから「望み」「ひとり」を捨てろ。
人は一人ではいられないのだから、一人気ままにフラフラせずに生きろと言う歌詞なのか?いや、大きな野望を持たずに生きろという歌なのか。人生は短く、年を取って老いて行くのだから、自己愛を捨てて他者への愛(利他)に生きろと言っているのか。全共闘世代の政治的敗北に関係していて、権力に関する欲をなくして「個人的な愛に生きろ」と言っているのか。
高校生だった自分には何を言われているのかさっぱりわからず、ただただこの曲の切迫感に感電しているような状態でした。じゃあ、40年近くが過ぎて何かはっきりと見えてきたのかと言われると・・・いや、まだ、見えません。
「望みを捨てろ」だけがまずかった??
ところが、驚いたことに、このアルバム最後を飾るシャウトは数年後、あっさり否定されてしまいます。1977年に拓郎は岡本おさみと対談をしています。その中で、
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拓郎 ところで、二人でいろんな曲を作ったけど『ライブ'73』(拓郎のライブアルバム)が 最大の勝利だったと思うね。メロディも詩も対等で、五分五分の勝負をしているし、とにかくあれはすべての面ですごいLPだったと思うよ。 特に『落陽』なんて最高、俺は今でも何度きいても酔いしれるね。
岡本 あれは本当に短期間で作ったよね。ものの1か月かそこいらだった。
拓郎 詩がパーッとできて、それにワーッとメロディつけてさ。そうやってものの一か月で作った曲ばかりなんだけど、俺はあのLP の中の曲ってすべて気に入っているね。ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ。
岡本 その辺はまったく同感だね。
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と発言しています。これがとても不可解で混乱していました。後述するように1973年当時の妻(四角佳子)とは離婚してしまうし。
拓郎の話を聞いていると、彼独特の逆張り魂があり、本心がどこにあるのか分からなくなることがあります。同じアルバムの中でさえも明暗があり、躁鬱があり、逆のことを言ってみるのが拓郎の特徴です。それが「青春の彷徨」「素直な独白」として共感を呼んだのだろうしと思います。まるでサリンジャーの「ライムギ畑でつかまえて」の主人公ホールデン君(≒サリンジャーの投影)みたいです。
この「ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ」という発言だって既に数十年前の話で、現在の拓郎や岡本おさみ(故人)はこの曲の事をどう思っているのだろう。拓郎の言うことは思い付きで逆張りだから、何か違うことを考えているかもしれません。
※ この年の本当の最後は1973/12/12 (水)@渋谷公会堂 (東京都)「来年もよろしくコンサート」だったようです。以下の曲を披露しています。
「聖しこの夜」「準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響」「ひらひら」「結婚しようよ(アンコール)」「ダイアナ(??)」
だそうです。これはジョイントコンサートだったので、本気の1973年オーラスは「望みを捨てろ」だったのだろうと考えています。
妻と子だけはあたためたい
1970年代前半は、(記憶を辿れば)ウーマンリブとか言って、女性の地位向上のけっこう激しい運動があったみたいです。1975年にはNHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手の中に女性を泣かせた者がいると中ピ連が粉砕予告を出したそうです。男女の関係が著しく変化していくこの時期、吉田拓郎という当時のアイコンが何を考え、何を(発信)していったのかを掘り下げることはかなり興味深い作業です。団塊の世代の女性観や結婚観が垣間見えてくる気がします。
歌詞の中には、
「妻と子だけはあたためたいから、望みを捨てろ」
と、言っています。
この場合の望みは「別の女」の事なのでしょうか。当時はまだ浅田美代子(1973年2月にドラマ「時間ですよ」でデビュー)の影は感じられません。しかし、拓郎の女好きは相当なものだったと考えられるので、金沢事件を含めて、様々な「つき合い」「アプローチ」はあったことでしょう。天地真理や南沙織にも公然とラブコールをしていましたし。
翌1974年の末に発売されたアルバム「人生を語らず」には、かなり深刻な夫婦の状況が刻まれています(特に「僕の唄はサヨナラだけ」に色濃く映し出されています)。その翌年1975年には愛人(浅田美代子)の方を棄てるのかと思いきや、結果的に捨てたのは妻(四角佳子)と子でした。拓郎は離婚と浅田美代子は関係ないと言い張っていますが、ないことはないと思います。あんなに「妻子だけはあたためたい」と叫んでおきながら、翌年には「借りてきた言葉はどこかに捨てちまいなよ」「疲れたんだよ僕は何となく」(「僕の唄はサヨナラだけ」より)とか言い出すのが腑に落ちませんでした。
拓郎や当時の若者(団塊世代)の貞操観念はどうだったのでしょう。1973年はまだまだ男尊女卑の時代であったし、離婚という選択肢をとることは社会的にかなりハードルが高い事だったと思います。拓郎の、おけいさん、みよちゃん、かよさん、そのほか多くの女性に対する貞操観念も、その時々の事態の変化とともに、どのように変わっていったのかと考えてしまいます。逮捕(5/23)~釈放(6/2)より以前に制作されたと考えられる「伽草子」(6/1発売)には、挑発的と思えるほどに性への「思い」が描かれています。その後に出されたアルバムや拓郎自身の発言にも、性に関する「自由な態度(笑)」が伺えます。
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詞は岡本おさみさんなので、もしかしたら岡本さんから拓郎さんへの戒めであったのかもしれないと、最近は考えたりしています。戒めを受けた拓郎が、孫悟空のごとく迷い、叫んでいるような気もするのです。
「所帯持ったのだから一人前の家庭人として望みを捨てないとだめかな」
「いやいや、俺は俺だし。自由に(望みは捨てずに)オネエチャン追っかけたいんだよ」
と、自分に向かって「望みを捨てろ」と言い聞かせながらも、「いやそーでもない、納得できない、人として煩悩は捨てれない」と苦悩しているような気がするのです。拓郎本人が確信的に「望みを捨てろ」と歌っているのではなく、岡本おさみの戒めに迷う心の声が、あの絶叫となったのではないかと憶測しています。
LIVE73とLIVE73years で、「LIVE73」のオーラスが煩悩との戦いに震える拓郎であったとします。するとLIVE73years(2019年:現時点=2020年では拓郎最後のライブ)のオーラス「今夜も君をこの胸に」は「LIVE73」の「望みを捨てろ」以降の拓郎の変遷の到達点を表しているように聞こえてきます。「今夜も君をこの胸に」は1983年。森下愛子との逢瀬を歌っているのは間違いないでしょう。窓から星が流れるのを見たあの部屋からから約35年。長きにわたって育み、しおれてなお残る森下愛子との愛の形を肯定して、この曲をLIVE73yearsのオーラスに選択したのだろうと勝手に思っています。ちょっといい感じかなあ。・・・と。 |
2020年9月20日日曜日
吉田拓郎が選曲した「現代ポップス界の王者」ボブディランベストアルバム
吉田拓郎(よしだたくろう)が選曲した
「現代ポップス界の王者」ボブディランベストアルバム
拓郎がボブディランを好きだということは1970年代には公言していました。デビュー当時は和製ボブディランとまで言われてました。
ボブディランのベスト盤もたくさんありますが、なんと吉田拓郎本人がボブディランの曲を選んだベストアルバムが存在したことはあまり知らないのでは?(とてもマニアックですね)
そんなには売れていないので今となってはとても貴重なアルバムです。選曲も普通のボブディランファンが選んだモノとはすこし違ったものでとても珍しい選曲となっているのがおもしろいです。
拓郎本人の一曲一興の解説まで書かれています。1973.5.21
DISC_1
1:くよくよするなよ
2:ハッティ・キャロルの寂しい死
3:ラブ・マイナス・ゼロ
4:廃墟の街
5:イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー
6:ライク・ア・ローリング・ストーン
7:寂しい4番街
8:メンフィス・ブルース・アゲイン
9:クィーン・ジェーン
10:スーナー・オア・レイター
DISC_2
1:アイ・ウォント・ユー
2:女の如く(ジャスト・ライク・ア・ウーマン)
3:ジョン・ウェズリー・ハーディング
4:見張塔からずっと
5:マイティ・クィン
6:レイ・レディ・レイ
7:新しい夜明け
8:イフ・ナット・フォー・ユー
9:ブルー・ムーン
10:マリーへのメッセージ
11:ベル・アイル(美しい島)
12:アルバータ
13:ゴーイング・ノーホエア
14:アイ・シャル・ビー・リリースト
15:風に吹かれて
2020年2月16日日曜日
吉田拓郎「落陽」について
拓郎の「落陽」は炭鉱への挽歌である!?
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おさみさんが「苫小牧」という地名をぶっこんだのは「落陽」に関するエピソードを聴けばなんとなく理解できるのだけれど、「仙台」という行先には必然があったのか、なかったのか、どうなんだろう。
そのフェリーは実在したのだろうか??北海道は電車で回ったの?そして、仙台に行って何するつもりだったのだろうか?「漂うだけ」の旅程に仙台が含まれていた?それとも「ふりだし」に戻るんだから仙台の人なの(いやいや、おさみさんは鳥取県米子市出身)?じゃあ、旅の始まりは仙台?いや、旅のきっかけが「ふりだし」なのかもしれないので、「ふりだし」は「一人ぼっち」の状態?旅をしても一人?「咳をしてもひとり」(by尾崎放哉in鳥取県鳥取市)?涙が出るほど寂しい一人ぼっち(by田口淑子)?仙台で何があったのか?横浜行きはなかったのか?アメリカにでも行けばよかったかも?
・・・妄想止まりません。
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示し合わせたわけでもないと思うのだけど、「だからこうして漂うだけ」(by岡本おさみ)と、「どこへ行っても同じ」(by田口淑子)が絶妙にリンクしたLIVE73!
2020年2月15日土曜日
14番目の月
初めて聞いたのが中2・・・かな?
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とか歌うユーミン。当時は女心の描写がほとんど理解できなくて、「このオネエチャン、いったい何言ってんのかな??」と、ただただ不思議でした。「ユーミン独特の翳り」の「ない」サウンドにも戸惑い。
青年期に於いて少しずつ歌詞の意味は理解できるようになってきたものの、それに対処するスキルは今だに身についていない。
「気軽なジョークが途切れないようにしてね、沈黙が怖い」
とか言われても、こちらとしては飛び蹴りするしかないだろうが(笑)。
アルバムでの軽いアレンジは進化を重ね、ライブではロックテイストが強くなっている。メロディーも天才だが、パーフォーマンスも天才だな。
スピッツの草野マサムネがカバーしています。
茶化しているのかと思えるぐらいの演歌ロック調アレンジが気に入っています。
ところで、「ロビンソン」って「真珠のピアス」に似てない? ---------- |
ムッシュかまやつ(1976年のセブンスターショーで共演)と吉田拓郎(1975年のつま恋ライブでは荒井由実と松任谷マンタさんは拓郎のバックを務めていた!)は2人の新婚旅行に乱入したとか(-_-;)。
日本も月が満ちる前だったのだろうし、超消費社会へと向かう高揚感がある。振り返ってみれば、昭和のラスト10年の幕開けを予感させるような名曲だったのかも。
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「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(by藤原道長)
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「望月の 欠けるさびすら またいとし」「新月も また満ちてくるさ そのうちに」(by俺)