狂気の1973年
名盤「LIVE73」においてラストを飾る「望みを捨てろ」は当時の吉田拓郎の複雑な立場を表している不思議な曲です。作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎。
1970年代、拓郎はとんでもない乱気流の中を突き進んでいました。「LIVE73」前後の拓郎の動きも実に目まぐるしいのです。1973年の出来事を簡単に記すと・・・
1月 新六文銭結成
5月23日 金沢事件(4/18の新六文銭ライブの後)により逮捕→ 逮捕によって新六文銭は事実上の解散
6月1日 アルバム「伽草子」発売
6月2日 不起訴となり釈放
6月3日 神田共立講堂のコンサート
(「LIVE73」のMCで「魔の神田共立講堂」と拓郎が語る)
11月26日 中野サンプラザ1日目
11月27日 中野サンプラザ2日目
12月21日 「LIVE73」発売
12月には四角佳子との間に第一子「彩タン」(長女)誕生。拓郎にとって唯一の実子となる。
翌1974年には森進一に提供した「襟裳岬」がレコード大賞受賞、翌1975年にはフォーライフ設立とつま恋でのオールナイト野外コンサート。挙句に四角佳子と離婚。1977年には浅田美代子と結婚し、1983年に離婚。1986年には森下愛子と結婚して、現在に至ります。
「LIVE73」は当時のロックコンサートとしてのクオリティの高さで群を抜くミキシングで日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムだったわけで、「望みを捨てろ」がアルバムでは歌唱中にフェイドアウトする形でアルバムは終わっています。このアルバムにはカセットテープ版があり、完全版ロングバージョンが入っています。
レコードバージョンは、拓郎の歌唱途中でフェードアウトしていたので、カセットバージョンの存在を知るまでの間、「人間なんて」みたいに延々と1時間ぐらい「のぞみをすてろ~~~~」と、歌い続けていたのかなと勝手に妄想していました(笑)。
中野サンプラザ公演は2夜連続
「LIVE73」は2日間の中野サンプラザ公演からのチョイス。1日目と2日目は拓郎の強い意向により、大きくアレンジの変更があったそうです。アレンジャーの瀬尾一三ともかなりの衝突があったそうですし、バントだってそれはたいへんな事だったでしょう。今はもちろん、当時でも考えられないですね。
「望みを捨てろ」も1日目と2日目とも、エンディング、歌い回しは明らかに違うし、エンディング前の4番までの歌詞部分の歌い回しも違います。アルバムに入っていない方の貴重な音源も残っていて、アルバムにチョイスされたのがどちらなのかは、今のところ不明です。チョイスされなかった音源は、別モノみたいに違います。比較的ラフな感じで、歌われています。
アルバムにチョイスされている「望みを捨てろ」のバージョンには狂気を感じさせられます。カオスを予告するようなゆったりとしたーホーンから始まり、最後は拓郎の絶叫でフェードアウト。拓郎自身がライナ―ノーツで「狂気の1973年」と表現しています。まさに怒涛オブ怒涛。なので、チョイスされたのは1973年をしめくくる「2日目(11/27)」なのかなと勝手に思っていたのですが今のところ真相は分かりません。
http://mushi646.blog.fc2.com/blog-entry-528.html#more
によると、ボーカルは後から差し替えられたようです。それが、後の「『望みを捨てろ』だけはまずかった」という発言の原因かもしれないと。自分としてはボーカルを後から差し替えたことに、特に異議はないけれどなあ。中野サンプラザを押さえて前後のコンサートのバンドとは違う特別編成のバンドでリハーサルを1か月ぐらいかけてやって、保険として事前に差し替え音源も用意できていたそうです。下のリンク先に素晴らしく詳しい記述があります。
http://mushi646.blog.fc2.com/blog-category-31-2.html
作詞:岡本おさみ
あくまで「望みを捨てろ」の作詞は岡本おさみです。ライブのセットリストに加えた曲の歌詞の全てが拓郎の心情を完全に反映しているわけではないでしょう。それでもアルバムのラスト、いや、1973年のライブの(ほぼ)ラストを飾ったこの曲が当時の拓郎にとって深い意味を持つものであったことは間違いないと考えてよいでしょう。
望みを捨てろ (Live)
作詞:岡本おさみ
作曲:吉田拓郎
ひとりになれない ひとりだから
ひとりになれない ひとりだから
妻と子だけは 暖めたいから
妻と子だけは 暖めたいから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりになれない ひとりだから
ひとりになれない ひとりだから
我が家だけは 守りたいから
我が家だけは 守りたいから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ふたりになりたい ひとりだから
ふたりになりたい ひとりだから
年とることは さけられぬから
年とることは さけられぬから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
最後はいやでも ひとりだから
最後はいやでも ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりになりたい ひとりを捨てろ
望みを捨てろ ひとりを捨てろ
ひとりになれない ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
年とることは さけられぬから
ひとりになりたい ひとりを捨てろ
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ふたりになりたい ひとりだから
望みを捨てろ 望みを捨てろ
ひとりを捨てろ ひとりを捨てろ......
鬼気迫るシャウト
私は高校時代にこのアルバムを約5年遅れで聴いています。多感な時期に(笑)、あんなに鬼気迫る感じで「望みを捨てろ」と拓郎に教唆されたので、ついつい、「え?あ?ん?そうなん?」って感じで、大望・私欲を中途半端に捨ててしまい、倒錯した人になってしまいました。
「なんか脳天・全身をヤられたなー」というのが10年ぐらい続きました。
たいていの大人や作家は「望みを捨てるな」「あきらめるな」「希望を持って」と言っているのに、なんでこの人はわざわざアルバムの最後で「捨てろ」と連呼しているのだろう。そして、それが刺さるのだろうか?理屈を超えた不思議感に包まれました。
「妻と子」「我が家」は守るべきで捨ててはならず、だから「望み」「ひとり」を捨てろ。
人は一人ではいられないのだから、一人気ままにフラフラせずに生きろと言う歌詞なのか?いや、大きな野望を持たずに生きろという歌なのか。人生は短く、年を取って老いて行くのだから、自己愛を捨てて他者への愛(利他)に生きろと言っているのか。全共闘世代の政治的敗北に関係していて、権力に関する欲をなくして「個人的な愛に生きろ」と言っているのか。
高校生だった自分には何を言われているのかさっぱりわからず、ただただこの曲の切迫感に感電しているような状態でした。じゃあ、40年近くが過ぎて何かはっきりと見えてきたのかと言われると・・・いや、まだ、見えません。
「望みを捨てろ」だけがまずかった??
ところが、驚いたことに、このアルバム最後を飾るシャウトは数年後、あっさり否定されてしまいます。1977年に拓郎は岡本おさみと対談をしています。その中で、
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拓郎 ところで、二人でいろんな曲を作ったけど『ライブ'73』(拓郎のライブアルバム)が 最大の勝利だったと思うね。メロディも詩も対等で、五分五分の勝負をしているし、とにかくあれはすべての面ですごいLPだったと思うよ。 特に『落陽』なんて最高、俺は今でも何度きいても酔いしれるね。
岡本 あれは本当に短期間で作ったよね。ものの1か月かそこいらだった。
拓郎 詩がパーッとできて、それにワーッとメロディつけてさ。そうやってものの一か月で作った曲ばかりなんだけど、俺はあのLP の中の曲ってすべて気に入っているね。ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ。
岡本 その辺はまったく同感だね。
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と発言しています。これがとても不可解で混乱していました。後述するように1973年当時の妻(四角佳子)とは離婚してしまうし。
拓郎の話を聞いていると、彼独特の逆張り魂があり、本心がどこにあるのか分からなくなることがあります。同じアルバムの中でさえも明暗があり、躁鬱があり、逆のことを言ってみるのが拓郎の特徴です。それが「青春の彷徨」「素直な独白」として共感を呼んだのだろうしと思います。まるでサリンジャーの「ライムギ畑でつかまえて」の主人公ホールデン君(≒サリンジャーの投影)みたいです。
この「ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ」という発言だって既に数十年前の話で、現在の拓郎や岡本おさみ(故人)はこの曲の事をどう思っているのだろう。拓郎の言うことは思い付きで逆張りだから、何か違うことを考えているかもしれません。
※ この年の本当の最後は1973/12/12 (水)@渋谷公会堂 (東京都)「来年もよろしくコンサート」だったようです。以下の曲を披露しています。
「聖しこの夜」「準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響」「ひらひら」「結婚しようよ(アンコール)」「ダイアナ(??)」
だそうです。これはジョイントコンサートだったので、本気の1973年オーラスは「望みを捨てろ」だったのだろうと考えています。
妻と子だけはあたためたい
1970年代前半は、(記憶を辿れば)ウーマンリブとか言って、女性の地位向上のけっこう激しい運動があったみたいです。1975年にはNHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手の中に女性を泣かせた者がいると中ピ連が粉砕予告を出したそうです。男女の関係が著しく変化していくこの時期、吉田拓郎という当時のアイコンが何を考え、何を(発信)していったのかを掘り下げることはかなり興味深い作業です。団塊の世代の女性観や結婚観が垣間見えてくる気がします。
歌詞の中には、
「妻と子だけはあたためたいから、望みを捨てろ」
と、言っています。
この場合の望みは「別の女」の事なのでしょうか。当時はまだ浅田美代子(1973年2月にドラマ「時間ですよ」でデビュー)の影は感じられません。しかし、拓郎の女好きは相当なものだったと考えられるので、金沢事件を含めて、様々な「つき合い」「アプローチ」はあったことでしょう。天地真理や南沙織にも公然とラブコールをしていましたし。
翌1974年の末に発売されたアルバム「人生を語らず」には、かなり深刻な夫婦の状況が刻まれています(特に「僕の唄はサヨナラだけ」に色濃く映し出されています)。その翌年1975年には愛人(浅田美代子)の方を棄てるのかと思いきや、結果的に捨てたのは妻(四角佳子)と子でした。拓郎は離婚と浅田美代子は関係ないと言い張っていますが、ないことはないと思います。あんなに「妻子だけはあたためたい」と叫んでおきながら、翌年には「借りてきた言葉はどこかに捨てちまいなよ」「疲れたんだよ僕は何となく」(「僕の唄はサヨナラだけ」より)とか言い出すのが腑に落ちませんでした。
拓郎や当時の若者(団塊世代)の貞操観念はどうだったのでしょう。1973年はまだまだ男尊女卑の時代であったし、離婚という選択肢をとることは社会的にかなりハードルが高い事だったと思います。拓郎の、おけいさん、みよちゃん、かよさん、そのほか多くの女性に対する貞操観念も、その時々の事態の変化とともに、どのように変わっていったのかと考えてしまいます。逮捕(5/23)~釈放(6/2)より以前に制作されたと考えられる「伽草子」(6/1発売)には、挑発的と思えるほどに性への「思い」が描かれています。その後に出されたアルバムや拓郎自身の発言にも、性に関する「自由な態度(笑)」が伺えます。
これについては、いずれ、別の稿で書いた方がいいですね。
詞は岡本おさみさんなので、もしかしたら岡本さんから拓郎さんへの戒めであったのかもしれないと、最近は考えたりしています。戒めを受けた拓郎が、孫悟空のごとく迷い、叫んでいるような気もするのです。
「所帯持ったのだから一人前の家庭人として望みを捨てないとだめかな」
「いやいや、俺は俺だし。自由に(望みは捨てずに)オネエチャン追っかけたいんだよ」
と、自分に向かって「望みを捨てろ」と言い聞かせながらも、「いやそーでもない、納得できない、人として煩悩は捨てれない」と苦悩しているような気がするのです。拓郎本人が確信的に「望みを捨てろ」と歌っているのではなく、岡本おさみの戒めに迷う心の声が、あの絶叫となったのではないかと憶測しています。
LIVE73とLIVE73years で、「LIVE73」のオーラスが煩悩との戦いに震える拓郎であったとします。するとLIVE73years(2019年:現時点=2020年では拓郎最後のライブ)のオーラス「今夜も君をこの胸に」は「LIVE73」の「望みを捨てろ」以降の拓郎の変遷の到達点を表しているように聞こえてきます。「今夜も君をこの胸に」は1983年。森下愛子との逢瀬を歌っているのは間違いないでしょう。窓から星が流れるのを見たあの部屋からから約35年。長きにわたって育み、しおれてなお残る森下愛子との愛の形を肯定して、この曲をLIVE73yearsのオーラスに選択したのだろうと勝手に思っています。ちょっといい感じかなあ。・・・と。
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