2022年3月20日日曜日

たくろうオン・ステージ第二集 ~吉田拓郎「原石の輝き」

10年限界説

たいていのポップミュージシャンは全盛期は10年ぐらいで、その後はだんだん似たようなフレーズが多くなってきて、作曲能力が衰えてゆくのではないだろうか。それは、私が勝手に思っていることで、例外はあるのだろうけれど、大体当たっているような気がします。
ポールマッカートニーだって、ビートルズ以降の曲は繰り返して聴こうとは思わないし、ビリージョエルも輝いているのはデビューから10年間ぐらいの曲だなあ。松任谷由実、桑田佳祐、桜井和寿・・・。拓郎のアルバムも、繰り返して聴くのは「ローリング30」までで、それ以降のアルバムをまるごと1枚聴き返すことはあまりないです。聞いたとしても、アルバム中の1曲を聴きたくなるぐらいで。「午前中に」(2009)は、けっこう聞きますが・・・。
拓郎本人だって「あのころの曲を超えることはできない」と言っています。若い時代の研ぎ澄まされた感性によって生まれた曲が神がかっているわけで、その後の曲がそれほど神がかっていないことについて、ミュージシャンを責めてみても始まりません。1970年代の拓郎の作品は本当に神がかっています。

幻のアルバム

「たくろうオン・ステージ第二集」(以降、「オンステージⅡ」)は、1972年12月25日に発表された、拓郎のライブ・アルバム。エリックという弱小レコード会社が拓郎の許可もなく発売してしまったために拓郎が反発し、廃盤となってしまったという悲しい経緯があります。したがって、公式ルートでは手に入りません。しかし、ネット時代となった現在、(違法ではあるものの)聞くことができてしまいます↓↓↓。




1971年8月11日から8月13日に東京渋谷にある渋谷ジァン・ジァンで3日間連続で行われたリサイタルを収録したとWikipediaには書いてあります。「よしだたくろう オン・ステージ ともだち」は、1971年6月7日の発売(録音は3月とか)なので、その数か月後の状態が録音されていることになります。発売時点では全曲がアルバム未収録曲だし、その後のアルバムで収録されたものは、「恋の詩」「かくれましょう」「人間なんて」「静」「ゆうべの夢」ぐらいでしょうか。ライブでもあまりこのアルバムの曲がセットリストに入ることはなかったようです。つまり、公式ルートではアクセスすることが難しい曲たちということになります。
拓郎に公式認定されず、後のライブでも取り上げられなかった「オンステージⅡ」の収録曲の数々。エレックが倒産してしまったこともあって、「オンステージⅡ」は「幻のアルバム」となり、長い間、音源が手に入りませんでした。十数年前にネット時代となってやっと手に入ったのだけれど、老後のおやつとしてもっと後になって聴こうと考え、やっと聴いたのが昨年、2021年です。黄金の1970年代のアルバムだからきっと素晴らしいのだろうという期待に、十分に応えてくれました。
拓郎本人に廃盤にされた作品ですから、完成度は高くないかもしれないけれど、デビュー初期の原石の輝き、ほとばしる才能のきらめきには、心を打たれるものがあります。1970年代に発表された曲には自分の心のどこかをいじられたような感覚があります。1970年代のアルバムにはすべて衝撃を受けましたが、この令和の時代、私もほぼほぼほぼ老人となり感性が擦り減ったの現在でも、「オンステージⅡ」は衝撃的な体験となりました。

それは、何だかわからない

何が衝撃的なのかと言われると、「それは、何だかわからない」です。自分の中にある核になる部分に直接作用して、変な気分にさせられるというか・・・。それぞれの時代に、その時代独特の背景があり、1970年代の拓郎作品と同じく、「オンステージⅡ」には、1970年代独特の空気が刻まれているように思います。
吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】
宇崎竜童が「メロディーは創り出すというより降りてくるんだよ」といった発言をしていました。名盤は時代が産み出すというか、名盤には時代が降臨しているというか・・・。
1970年代は消費社会化が進んでどんどん豊かになっていったというイメージがありました。万博で幕を開け、トイレは水洗に、テレビはカラーにと・・・。同時に暗い影を落としていたこともたくさんあります。いつの時代も、人は残酷で、自然も残酷です。いつの時代にも狂気が存在していると思います。今現在も、ウクライナが狂気の沙汰になっています。

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時代が少しは変わっているけど 狂ったところは今も同じさ

   「俺が愛した馬鹿」(1985)

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1970年代という時代が持っていた狂気と、若き日の拓郎の個人的な狂気が重なって、1970年代の作品には凄みが感じられます。
吉田拓郎「私は狂っている」~確かに、狂っていたと思う
「オンステージⅡ」の作品群にも、時代の狂気が憑依しているように思います。

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大きな夜につつまれて 僕はなぜだかこわかった
【中略】
大きな夜につつまれて 僕はひとりがこわかった

   「大きな夜」(1971)

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確かに、当時の夜はまだまだ暗くて、怖かったです。名曲「真夜中のギター」とはまた違った趣がありますね。「ここにおいでよ、みんな孤独でつらい」なんていう呼びかけ(連帯)はありません。夜が怖くて孤独だという身も蓋もない個人的な詩です。作曲者である拓郎本人の意図を超えて、当時の夜(「夜」にメタファーされた「社会」)の怖さが伝わってくるような気がします。歌詞だけではなく、メロディーや演奏や歌声がそれを(本人の意図を超えて)表しているように感じます。

「大きな夜」に続いて歌われる「僕一人」もまた、身も蓋もない個人的趣向を「中近東風」(本人談)の不思議な魔力を持ったアレンジで聴かせます。Beatlesの"Here Comes The Sun"にもちょっと似ているような。

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一人でいたい 座っていたい
一人でいたい ベンチと僕

   「僕一人」(1971)

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何でもないと言えば、何でもないのだけれど、当時の同調圧力の強い農耕型社会(都市も地方田舎もまだまだ農耕型だった)へのアンチテーゼだったのでしょう。この後、多くのしがらみを断ち切り、仕組みをぶち壊してゆく拓郎のポテンシャルエネルギーが垣間見えます。「これからも道を外しますよ」と、宣言しているみたいです。

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でも僕には関係ないことだ 自分のことだけで精一杯だ

   「準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響」(1971)

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これもまた、個人的な曲ですね。特定ができる個人の名前を出してどストレートに長尺で、愛憎を告白しています。しかもアルバム冒頭w。地方に残してきた元恋人が気がかりなのだけれども、「自分のことで精一杯」だと正直に言ってしまう一方で、時代のうねりの中で変わってしまう自分を哀しんでいるようにも聞こえます。

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女の娘 女の娘 何とかならないか
何とかしてよ 女の娘 せめて僕が恥をかく前に

   「何とかならないか女の娘」(1971)

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女の子に「そんなに同じようなファッションをするなよ」と、苦言を呈しているのでしょうか。かなりちっさい話wにけっこう淫靡なメロディーwwをつけて歌っています。この曲以外にも、「トランプ」「腹減った」「雨」等、拓郎が公式音源としては認めたくないという気持ちは分かります。アルバムが弾き語りを中心に構成されていて、「フォーク」と呼ばれるのに辟易していたのかもしれません。しかし、リスナーとしては不思議に心が揺さぶられるこの曲たち。廃盤にしておくのはもったいない気がします。
近年、拓郎がラジオで「自分は谷村新司の「昴」のように大仰なことは歌わない。」と語っています。その姿勢は今も変わりません。「季節の花」(2009)なんかも、日常を切り取った名作だと思います。このアルバムは全体を通して「自分たちの小さな日常」を切り取ってスケッチしています。ラストの大作「人間なんて」(1971)を除いては、本当に淡くて小さな日常を切り取っています。まあ、「人間なんて」だってガーガー歌っているけれど、けっこう個人的な日常の切り取りです。だからこそ、モワッとした1970年代初頭が立ち上がってくるように思えます。拓郎の70年代が炸裂する前の、原石のギラリとした輝きが垣間見えるような気がします。このライブは伝説となっている1971年8月8日の「中津川フォークジャンボリー」の3日後からの3日間での録音ということになります。ギラついているのも頷けます。

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ある夜 悪い男のために 混血娘と笑われて
日本人にだまされた 日本人が傷つけた

   「日本人になりたい」(1971)

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こちらはモロに時代をスケッチしています。1970年代前半はまだ、戦後の風景を残していましたね。バラックや傷痍軍人。特に広島には大きな傷跡が残されていたと思います。多分、個人的にハーフの女の子に思い入れがあって作られたのだろうと思います。

「ポーの歌」と「恋の歌」といった故郷の青春ソングが含まれているのも興味深いです。1970年代前半はまだまだ農耕型社会であり、牧歌的でありました。光あるところに影がある(サスケ)。


押し黙る

淡いスケッチが続く「オンステージⅡ」の中で、やや主張の強い歌詞だなと思うのが「かくれましょう」です。作詞は岡本おさみです。

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怒りは奥に飲み込み 悲しみは微笑みに変える
本音は衝動で吐くものではありません
かくれましょう かくれましょう
かくれましょう かくれましょう
結局のところ いつかは開き直る時が来る
時期を 待ちましょう

   「かくれましょう」(1971)

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「花嫁になる君に」が岡本おさみとの初の共作だと言われることがありますが、もしかしたらこの曲の発表時期の方が先なのかもしれません。この曲は「COMPLETE TAKURO TOUR 1979 [Disc 2]」(1979)や「Oldies」(2002)にも収録されています。なんと「Oldies」では最終曲という位置づけです。「黙り込んで待つ」という姿勢は、その後の作品にも繰り返し出てくる姿勢です。

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空を飛ぶことよりは 地を這うために
口を閉ざすんだ 臆病者として

   「人生を語らず」(1975)

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拓郎は自分でも太鼓持ちだと言っており、実際サービス精神が旺盛で、陽気で明るいという側面があります。「オンステージⅡ」のMCでも、ファンに対して余計な(笑)おしゃべりをする正直者の拓郎の姿が垣間見えます。落花生とか(笑)。それと同時に、何かを飲み込み、押し黙っているイメージもあります。
①話さないと決めてずっと話していないこと。
②話さないと決めていたけど時効となって話してしたこと。
③話してはいけないのについ話してしまったこと。
④話したくて仕方なくて、話しまくること。

など、「拓郎と黙秘」には、いくつかのパターンがあります。身内に話してもファンには話さないことも多々あるようです。

名盤認定

「オンステージⅡ」の後にも、公式音源としては残っていない「ライブのみでの発表曲」がたくさんあるのも、拓郎の創作活動の特徴でもあります。押し黙るというパターンに似ていて、「ライブでファンに対しては歌うけれど、決して公式音源としては残さない」というある種の場面緘黙戦略なのでしょう。
少々粗削りなそれらの楽曲の中でも、「オンステージⅡ」として一時期非公式ながら販売されたこの作品群は、そろそろファン歴が50年に近づいてきた私の胸に刺さりました。拓郎自身には公式アルバムとして認定されていない「オンステージⅡ」ですが、私が認定しましょう。
  「名盤です。」


2022年3月5日土曜日

吉田拓郎と男と女の関係は ~女性は「君」「お前」「あなた」「女」【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.7】

吉田拓郎とジェンダー

「戦前の夫唱婦随」から「戦後の男女平等」、「1970年当初のウーマンリブ運動の時期」、「セクハラ&パワハラ断罪の令和の時代」まで、男女の関係の在り方は、大きく変わりました。「吉田拓郎とジェンダー(フリー)」を語ってみるのはけっこうおもしろいと思います。
一応、男女の平等がはっきりと憲法に定められたのが1947年だから、拓郎(1946年生まれ)が属する団塊世代は「男女平等ネイティブ」という事になります。とはいうものの、憲法で男女平等が謳われていても、昭和はまだまだ男尊女卑が残っていました。「強権的な父親」「男尊女卑の強い鹿児島生まれ」「戦後の政治的混乱があった広島育ち」「両親の別居に伴う女性ばかりの家族生活」「体が弱かったことによる男性社会からの脱落」という拓郎の青年期までの環境。また、その後も「体が弱かったことを克服したことによるマッチョ志向」「本質的に女好き」「音楽業界的での女遊びの慣習」「繰り返された出会いと別れ」「病魔との闘い」「老齢になり女性化」などの様々な要因が絡み合い、「男・吉田拓郎」の
ジェンダー観(≒男性観・女性観)も大きく変化しているようです。有為転変、世の不確かさについて歌ってきた拓郎氏、男女関係についても、下記のように歌っています。

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男と女の関係は 誰も知らない分からない

   「男と女の関係は」(1983)

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成人して東京に出てゆくまでの間、女性に囲まれて育った広島時代が拓郎に与えた影響は多大だったことでしょう。拓郎の多面的で複雑な女性観はこうした状況によって醸成された部分はあるでしょう。

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顔なじみのお酒好きで女好きな
愛を振りまいて のし歩く
憧れの君
今夜はどの娘の 腰に手をまわし
浮かれて踊る
楽しきかな今宵 夜が回ってる
   午前0時の街(1976)

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女性と一緒にいることが幸せそうですね。一方で

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古き時代と人が言う 今も昔と俺は言う
バンカラなどと口走る 古き言葉と悔やみつつ

   「我がよき友よ」(1975)

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と、男らしさへの拘りも強いです。学生時代は応援団に所属していたこともあったそうです。おそらく、男らしさを求めていたのでしょう。令和の世となり、ジェンダーフリーはさらに浸透してきました。「男(女)なら」「女(男)らしい」などの言葉さえ存立の危機です。私も昭和男子の端くれなので、男女の性差を無視したような話はちょっと違うような気がするのですが・・・。

硬派のようでもあり、軟派のようでもある拓郎。かなり捻じれてはぐれたけれど、令和まで生きてきたね、拓郎さん。


吉田拓郎は女性に対してどのような呼称を使用してきたか

「吉田拓郎が女性についてどのような呼称を使用してきたのか」という観点で少し考えてみました。恋愛感情がある相手をどう呼ぶかは2人の距離を測るためにも、けっこう重要なポイントだと思います。歌詞の中での呼称の変遷について全歌詞検索でもしてみたいものだけれど、全歌詞をデジタルのテキストで持っているわけでもありません。従って、以下は私の記憶と推測に基づくことも多い内容になることをお許しください。間違いがあったらご指摘ください。

拓郎本人作詞ではないですが、けっこう面白いのが風見慎吾に提供した曲「僕、笑っちゃいます」(1983)の、こんなフレーズです。

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夏になったら 砂浜で

君を「おまえ」って 呼びたかったよ

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作詞は「欽ちゃんバンド+森雪之丞」となっています。若い男の子のその気持ち、昭和世代にはなんだか分かる気がして笑っちゃいますね(笑)。この部分を除けばあとは全部「君」で統一されています。ちなみにこの曲とアルバム「176.5」(1990)だけで森雪之丞とはコンビを組んでいます。ちなみに「176.5」で共作した5曲はいずれも「君」でした。


歌詞の雰囲気や設定・語呂合わせ・リズム感など、どの呼称を使用するかはおそらく拓郎も作詞家もそれなりに考えているのだと思います。もう少し詳しく見ていくと…

【君】
<一般的に>相手を大事にしているという表現かな。フラットなムードです。下手に出る事情がある場合に使う。社会人にしてみれば、「君」は格下の相手に使う呼称ですね。
<拓郎的に>下手に出る事情がある場合に使っている気がします(笑)。割と初期から基本的に「君」が多いように思います。ある意味、さわやか。ちなみに、男性に対しても「君」は多用されている。
<例>デビュー曲「イメージの詩」「マークⅡ」(1970)・「結婚しようよ」(1972)「君が好き」(1973)・「シンシア」(1974)・「今は恋とは言わない」(2009)

【あなた】

<一般的に>貴方や貴女と書くらしい。かなり大切な相手を呼んでいる感じ。あがめているのかもしれない。女性に「あなた」と呼ばれたい男は多いかもしれない。しかし、男性が女性を「あなた」と呼ぶのはかなり親密か、もしくは距離があるかのどちらかの気がする。
<拓郎的に>憧れがあるかも。稀な気がするし本人作詞で女性に対して「あなた」はなかったかも。「あなたを愛して」「外は白い雪の夜」など、女性を主人公として男性によびかけるものは、ある。
<例>「恋唄」(1978)しか思い浮かばないのだけれど・・・作詞は松本隆

【お前】

<一般的に>昭和はまだまだ男尊女卑傾向が強く、女性に対して「お前」と呼ぶことにそれほど違和感はなかったと思います。歌詞、特に演歌系の歌詞には多用されていたと思います。場合によっては親しみを込めて、近さを表現する時にも「お前」を使っていたかもしれません。女性も「お前」と呼ばれる事には所属感があって嬉しかったのではないかと想像しています。私自身、お前と呼び合える親しい仲は歓迎していたけれど。平成も後半になるともう、女性に使うには死語に近いのかもしれないです。かなりのイケメンが上から目線で「お前」と言った時には「キャーキャー」となりますが、そうでない場合は悪い意味で「キャー!!」とドン引きになりそうで使いづらい(笑)。職務上、かなり上位の男性が言ってもドン引きされるセクハラワードになってしまった感があります。

<拓郎的に>ちょっとグイグイ行きたい女性に対して使っていたように思います。または近い相手。1980年代前半にはけっこう使っています。その他の時期は、作品の上では、あまり「お前」を使わず、「君」を多用していたのではないかと記憶しています。その方がフラットで爽やかだからね。拓郎は割と女性に対して紳士的な態度をとる一方で、マッチョな態度に出るところもあるように思います。

<例>アルバム「俺が愛した馬鹿」(1985)ではかなり強めに「お前のような馬鹿」と綴っています。

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」って、誰がアホやねん!~「風になりたい」の「私」は誰でしょうを参照。

他にも、

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ベッドの横に ゆうべの女

目を覚ませよ お前との愛は

午前3時に もう終わってるのさ

 「すいーと るーむ ばらっど」(1983)

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荒んでいます。女性を性欲のはけ口として見ています。令和時代でこれを歌うのはかなりやばいな(笑)。

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お前の体を 抱きしめていたい

すさんだ心を なぐさめてくれ

   「お前が欲しいだけ」(1983)

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お言葉通り、かなり荒んでいますね。

これらの「男と女の関係は」「チェックインブルース」(1983)「抱きたい」(1985)など、森下愛子との結婚に至る過程で出来たと思われる曲には「お前」が使われていることが多いようです。
一方で森下愛子さんとの逢瀬を想起させる「今夜も君をこの胸に」(1983)にはロマンが溢れていて、「君」を使っています。「I'm in love」(1983)では、

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このまま世界の終わりが来てもかまわない
君と一緒に死んでいけるならすべてを許そう

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とまで歌っています。当時、私はまだ学生だったので、「いやいや、勝手に世界を終わらせないでくれよ。」と思いましたが(笑)、かなりもう、愛子さんにメロメロだったんですよね。

この時期(1980年代前半)の拓郎作品には、情緒不安定が呼称にも表れているような気がします。

フラットな関係への回帰

拓郎の一般社会でのブレイクは「結婚しようよ」で間違いないと思います。

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僕の髪が 肩まで伸びて
君の髪と 同じになったら
約束通り 町の教会で
結婚しようよ

   「結婚しようよ」(1970)

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という男女のフラットな関係性を歌った歌詞は、当時の社会においてはけっこう衝撃的だったと聞いています。

吉田拓郎「結婚しようよ」におけるフラットな男女関係 【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.1】
そこが出発点だったのだろうし、拓郎の基本的な立ち位置だったのではないかと思います。1980年代には少々マッチョになり、荒み気味だった時期もありました。それは昭和男子と昭和女子の中にあった性差であり、お互いが背負ってきた性役割だったのかもしれません。しかし、コンサート撤退(2019)前後のラジオで、森下愛子との静かな日々について拓郎はよく夫婦関係の変化について語っています。ドラマ撮影による妻不在の生活の話を語る拓郎はちょっと可笑しいです。「気分は未亡人」(1984)の逆の立場みたいです。「夫婦の姓が入れ替わり、自分が女性化している」といった内容の内容の発言もありました。拓郎は笑いながら愛子夫人と築いてきた親密な関係を話してくれます。夫婦という形が昇華された後の、人間としての関係性。激動の時代を経て、拓郎夫婦に安息の日々があることに長年のファンとしての喜びがあります。
ラストコンサートのアンコール(ラスト)で歌われた「今夜も君をこの胸に」。いつも雨降りだった拓郎も、雨上がりの陽だまりのような心境にたどり着いたんじゃないかな・・・そんな気がします。
吉田拓郎【LIVE73y感想-10-今夜も愛をこの胸に】

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