2022年2月20日日曜日

吉田拓郎「私は狂っている」~確かに、狂っていたと思う

拓郎は狂っている

よしだたくろう・オン・ステージ「ともだち」(1971)の中に収録されている「私は狂っている」が、とてもとても好きです。「ともだち」はエリックレコードから公式に出された3枚のアルバムの2枚目で、ライブアルバムです。デビュー作「青春の詩」と出世作「人間なんて」に挟まれています。

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若すぎて何だかわからないのだけれど、前へ、前へと進まざるを得ない青春期に、もしかしたら自分は狂っているのではないかと思ってしまうことが、あったのだろうなと思います。普通の人でも、青春期はそこそこ狂っているものでしょう。当時の拓郎の状況を考えると、なおさら狂っていたことでしょう。ある種の狂気を孕んでいるいなければとうてい乗り切れるような状況ではなかったかと思います。まさに「狂気の沙汰」。音楽界で身を立てようと都会に出てきて、デビューを果たすというところまでで、かなりの摩擦や消耗・衝突が生じたことが伝えられています。前後の1年間を見ても、かなり強烈に動き回っています。トピックを拾ってみました。

1970年
11月1日 ファーストアルバム「青春の詩」発売
1971年
6月7日 アルバム「よしだたくろう・オン・ステージ ともだち」発売(録音は3月?)
7月21日 シングル「今日までそして明日から」発売
8月8日 第3回中津川フォークジャンボリーでの「人間なんて」の熱狂
8月11日~13日 後に発売される「よしだたくろう・オン・ステージ第二集」の録音
11月20日 アルバム「人間なんて」発売

この短期間で、作詞・作曲・録音に追われていたでしょうし、記録に残っていないライブ活動も盛んであったようです。岡林信康を追い落としたと言われる中津川フォークジャンボリーを頂点に、まさに渦中の人になりつつあったのでしょう。「私は狂っている」の一節に「岡林をどう思う」と綴った数十日後のことです。そして「オンステージ第二集」が中津川フォークジャンボリーの数日後に録音されていたことにも驚きです。
ものすごい数のものすごいエネルギーを持った人たちとの関りを持っていただろうと考えると、クラクラしてきます。エリック社員・ともだち・マスコミ・音楽関係者。ファーストアルバム「青春の詩」にも狂気が秘められています。

「青春の詩」吉田拓郎の正直 ~デビューでいきなり●●●【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.0】

「人間なんて」では加藤和彦・松任谷正隆・小室等など、たくさんの才人を引き寄せています。凄い磁力です。

とにかくどストレートな拓郎さんです。広島でもなんだかんだあったという話が残されていますが(写真部退部事件とかw)、東京に出てきてさらにひと悶着もふた悶着もあったみたいです。拓郎本人が話している範囲のこともけっこう面白いけど、拓郎本人が「話さないことがある」とおっしゃるように、たくさん、いろいろあったんだろうな。

そしてさらに狂気の渦に巻き込まれてゆくような拓郎の1970年代を、「私は狂っている」は予告していたのではないかという気がします。怒涛の1970年代、常人ではない10年間です。音楽界との闘い、マスメディアとの闘い、私生活の混乱。

吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】


クレイジーなエネルギー

「何のために生きている」「お前はプロかアマチュアか」「お前は社会派か」「岡林信康をどう思う」

歌の中で、拓郎は「すると僕はこう答える 体裁つけて」と、背伸びをしている自分を客観視しています。ひと癖もふた癖もある人たちが自分の周りに集まってきて、何か言い寄ってくるのに対応するのはたいへんだったろうな。最後にたたみかけるように吐き出すこの部分が秀逸です。

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誰かが 誰かが 誰かが 誰かが

聞かれるたびに僕の答えは違ってる

は 私は 私は狂っている

狂っているのに それでも答えてる

「私は狂っている」(1971)

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自分が話していることにも、そして自分の中で考えていることにも整合性が取れなくなってしまっていることを認めています。確信犯。狂ってはいるけれど、進んでゆくしかない状況を背負っていく覚悟も恐怖も快感も感じられます。「今のことも、先のことも、わかんねえよ。でも、何かをしないではいられないんだ」という「思い」で生きていかなければならないのが人生です。Rollingstones”Monkyman”(1969)の終盤でミックジャガーが絶叫しているのに通じているような気がするのは私だけ?


「今日までそして明日から」(1970)も、「私は狂っている」と通じるものがあると思います。

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私には 私の生き方がある

それはおそらく自分というものを

知るところから始まるものでしょう

けれど それにしたって 

どこでどう変わってしまうか

そうです わからないまま生きている

明日からのそんな 私です

「今日までそして明日から」(1970)

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この曲を初めて聴いた時はまじめな小学生だったので、何だか一貫性のない変な人だなあと思ってしまいました(笑)。

「オンステージ『ともだち』」には、斉藤哲夫の「されされど私の人生」のカバーが収録されており、その後のライブでも愛唱していました。

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一時停車を試みてみたが 冷たい風は私の中を

狂気のごとくさ迷い歩き 果ててこの世を去ることのみ

変わる 変わる 目の前が 

変わって それでおしまいさ

されど私の人生は されど私の人生は

「されど私の人生」(1971)

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高速で移り変わる東京の街と拓郎の周辺。

「天使と悪魔」「冷酷と温厚」「衝動と静寂」「喜びと悲しみ」「栄光と挫折」「狂気と正気」「躁と鬱」・・・誰もが相反する二極を抱えながら生きているのだろうけれど、拓郎の振れ幅はマックス大きかったんだろうなあ。

天才と狂人は紙一重

新しいものを創り出したり、大きな流れを変えたりする人は、往々にして狂ったところがあります。「何だかわからんがー、進むぞゴラァ」という当時の拓郎が持っていたポテンシャルエネルギーの凄さがうかがえます。狂ってでもいなければ進めない道だったと思います。

ゴッホ、ゴーギャン、シューマン、キースリチャーズ、エジソン、アインシュタイン、野口英世・・・中島みゆきも入れておこうか(笑)。上へ下へ、右へ左へと大きく振れながらも、偉大な創造・業績を残し、慈愛に満ちた彼らの人生。

強烈なひらめきと自己愛と自己嫌悪。巻き込まれる周囲の人も大変だったと思います。かまやつひろしがつま恋コンサート(2006)で、拓郎本人に「吉田さん、相変わらず、性格悪いねぇ」「でも好きよ」と笑いながらと話しかけています(あー、このシーン泣けるわ)。

マッドでもクレイジーでも、ドン・キホーテでも、流れを変えた拓郎は偉大だ。若輩者ながら、私もクレイジーでありたいと思ったし、今もそうでありたいと思っています。


2022年2月13日日曜日

吉田拓郎「それでも、都会が好きだ」~1970年代の作品における故郷・都会・孤独・喧騒

 

1969年、拓郎の上京物語

東京都の人口は明治初期から現在まで、太平洋戦争時の落ち込みを除いて順調に増加してきており、中でも戦後の30年間の伸びは急な上り坂になっています。 その後、1975年あたりからは鈍化が見られ、横ばい状態となります。成熟期に入ったと考えてもいいと思います。

東京都の年齢3区分別人口の推移

1975年といえば、拓郎のつま恋オールナイトコンサートですね。


1970年代はとにかくあらゆる面で社会の変化量が大きかったように思います。拓郎にとっても激動の時代です。今になって考えると沢田研二の「TOKIO」(1980)は、成熟した国際都市東京を見事に表現していたのだなあと考えさせられます。

1975年までには大衆歌謡の世界で東京への上京物語を歌った作品は多数あったようですが(知らんけど)、その後、演歌(的な歌謡曲)の衰退とともにそういった作品は減っていった気がします(知らんけど)。「北の宿から」(1975)「津軽海峡冬景色」(1977)などは、都会からの敗退を歌っています。今考えれば演歌の「残党」であったのかと。
地方出身者であっても単純労働(出稼ぎとか)ではなく、都会のきらびやかな生活をものにする条件がかなり整ってきたというのが当時の状況でしょうか(知らんけど)。暗くてジメジメした演歌や気難しい全共闘の時代から、明るくポップな商品が受け入れられる1970年代が幕開けたように思います。

1975年。「木綿のハンカチーフ」はある意味、上京物語ソングの集大成だったのかもしれません。おお、ふきのとうの「初夏」もこの年か。

夏の初めの昼下がりは とても馴染めず淋しくなる


矢沢永吉(広島出身)・井上陽水ら昭和の面々(福岡)・大瀧詠一(岩手)・中島みゆき(北海道)なども食うに困ったというほどではないのだけれど、都会での成功を目指して上京してきた人々ですね。

彼らに比べて坂本龍一・松任谷由実・加藤和彦・細野晴臣らは関東圏です。生まれや育ちの違いは、作風にもかなり影響しているように思います。

拓郎(広島出身、1969年に上京)の作品の中にも、特に1975年までの歌詞には「都会の寂しさ」「都会への憧れと敵意」「望郷」が描かれているように思います。上京は多感な青春期の孤独や不安と重なって、独特のメロディーも生み出されました。

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街を出てみよう 今住んでいるこの街が 美しく緑に覆われた 心のふるさとだったとしても 街を出てみよう 汽車に乗ってみよう

「こうきしん」(1970)

ふるさとが好き 生まれたとこが好き

「ふるさと」(1971)

これが自由といういものかしら 自由になるとさみしいのかい

「どうしてこんなに悲しいのだろう」(1971)

麦わら帽子はもう消えた 田んぼの蛙はもう消えた

「夏休み」(1972)

真新しいスーツケースをさげて 集団就職で今着いたらしい 妙に腰の低い男が先頭に立って 何とか会社の旗など振り回している (中略) どうですか 東京って奴に会ってみて どうですか 東京って奴のご挨拶の仕方は

「制服」(1973)

ラッシュアワーをごらんよ 今朝もまた 見出し人間の群れが 押し合いへしあ

「ひらひら」(1973)

都会は嫌だと女に言ってみな どこかに行こうと誘ってみなよ

「三軒目の店ごと」(1974)

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どのラインも都会の煌びやかさ・喧騒・冷たさに戸惑う、上京した若者たちの心情をよくとらえていると思います。街を出てゆく方法が「汽車」だったんですよね。新幹線ではなく、汽車です(実際は、後輩が運転する車で初上京したとのことです)。

私もそこそこの年に住んでいますが、初上京した折にはそのバカでかさと冷たさになんだかセンチメンタルな気分を惹き起こされました。いや、令和になっても「東京って奴」には同じような気分を惹き起こされます。憧れもあり、哀しさもあり・・・・

上記の作品群は「演歌的なフレーバー」の呪縛をかなり抜け出したポップなメロディーとアレンジで「上京物語を」聞かせてくれます。ちょっとオシャレな感じ?でも、どこか拓郎独特の民謡フォレーバーがただよっていて、好きです💓💓💓ww

広島からまさに「街を出てみよう」と東京へと出てきた拓郎。多くの「普通の若者」も東京という波に揉まれ、それぞれの物語の中で様々な思いをしてきたのだろうけど、拓郎が身を投じた場所(音楽界)は常人では考えられないような激変を遂げる世界だっただろうと思います。

「制服」は当時の東京で集団就職にやっときた女の子たちを描き、時代を感じさせられます。彼女たちを迎える東京の甘い夢と厳しい現実。土地に縛られ、よその土地に移動することが非常に困難であった戦前は、農業を中心とする地方で「地元産業に就くというジモティーな人生」がほぼ一択であったでしょう。戦後は長男優遇の制度のせいで食うに困って都会に出てくるパターン(明治生まれだった私の祖父母世代がそうでした)から、TVが牽引するきらびやかな消費社会にあこがれや夢を抱いて都会に出てくるパターンへと、徐々に移り変わっていきます。欧米化してゆく都会の様子を家にいながらTV(動画)でキャッチができるようになったというのは、大きいですね。

それでも、都会が好きだ

1970年代後半にも「都会での生活」を歌った拓郎作品は頻出しています。

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北から吹いた風に追われて 旅立つ僕を許してくれよ 寒い都会に行こうと思う そこで仕事を探すつもりだ

「水無川」(1976)


表参道 原宿は 懐かしすぎる友達や 人に言えない悲しみすら 風が運んでしまう街

「風の街」(1976)

そよぐ風が僕の髪を通りすぎて 街がいつもの静けさに つつまれる頃 思うがままに足をはこべば 靴音のメロディー やさしいあの娘の店はもう近い

「午前0時の街」(1976)

淋しいよ むなしいよ それでも、都会が好きだ 風の街は 誰もが一人

「乱行」(1977)

何に酔う 何にすがる 何が欲しい 何もいらぬ せめてもの レミーマルタンをだきしめよう

「わけわからず」(1978)

故郷に帰ろうなんて言って 帰る故郷なんかありゃしねえじゃないか

「人間なんて」(1979:篠島ライブバージョン)

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1970年代後半の作品には「都会の絵の具に染まってゆく拓郎」の姿が見え隠れします。「乱行」ではついに「それでも、都会が好きだ」と言ってしまいます。五木ひろしは「ああ、誰にも故郷がある故郷がある」(ふるさと:1973)と歌っていましたが、1970年代は地方の都市化や農業離れが進みます。都市の都市化も進み、下水(水洗トイレ)が完備され、銭湯は衰退します。「テレビを媒介とした一億総白痴化」(大宅壮一:1957)がテレビの全盛期である1980年に完成されたと考えると、カラーテレビの普及が進んだ1970年代の変化量はたいへんなものがあったと思います。1970年代前半の拓郎作品にも後半の拓郎作品にも「哀愁」がありますが、その色はずいぶん変わってきています。

故郷を断ち切る

太田裕美「木綿のハンカチーフ」(作詞はその後の拓郎の盟友、松本隆)の【僕】が「毎日愉快に暮らす街角、僕は僕は帰れない」と歌ったのはおそらく「上京物語」のターニングポイントだったのだろうと思います。


1960年代までは、地方社会のしがらみはかなり強固な束縛があったと思います。拓郎の青春時代、1970年代の前後10年あたりには令和の田舎よりずっと「つながり」も「しがらみ」も強かったと思います。農業という産業はもちろんのこと、学校・会社(縁故採用)・家族(家父長制)など、地方独特の制度や仕組みは窮屈なものだったでしょう。田舎の人情がある「つながり」と閉鎖的な「しがらみ」。拓郎は1969年、上京によってその両方を断ち切りました。

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故郷よさらばと家を出て 車に積みこんだ夢と出る 都会に憧れなんてガラじゃない 古臭い 常識と 争ってみたい

車を降りた瞬間から(1990)

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「つながり」を切って孤独を背負い、「しがらみか」ら逃れて自由を得た状況で、「都会のしがらみ」「都会のしきたり」との闘いが始まります。そんな中で生まれた1970年代の拓郎の作品群は、まさに戦後30年(1975)前後を物語る貴重な文化遺産だと思います。見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転したのがちょうど1970年であったのは、とても象徴的です。「結婚しようよ」(1972)に描かれる自由な婚姻は、時代を映す鏡だったのでしょう。最初の結婚も、おそらく「古臭い常識との争い」という一面があったのだろうと考えています。拓郎が上京した当時の東京は、写真や映像で見る限り、かなりの田舎ですね。

1980年以降にも、たくさんの「上京物語」や「都会の哀愁」を歌った作品は作られてきました。もちろんそれらの作品群もとても好きです。
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その頃はまだ若者も あふれるほどの人込みはなく
ほんのひと固まりの芸術家気取りが
明日について熱弁をふるっていた
(中略)
原宿表参道は 誰にも語られなかったドラマを 懐かしい人がやってくると そっと話しかけてくれるに違いない

「街へ」(1980)



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この曲↑のアウトロはいつまでもアウトせずに続いてほしいと思うくらい大好きです。が、1980年以降はどうしても1970年代を振り返ったりそれと比較したりした作品が多く、「回顧感」が強いです。1970年代の吉田拓郎は、本人が「当時の自分は越えられない」と言う通り、神がかり的な存在なのです。

吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】

吉田拓郎「いつも見ていたヒロシマ」 ~社会派ではない、というスタンツ

「僕は社会派ではない。」という想いがあったのか、このアルバムの発表後、岡本おさみとは距離を取るようになっています(「アジアの片隅で」:1980年)。ミュージシャンとして反戦歌を歌うことだけが反戦行動ではない??

拓郎は自分が社会の中で、どういった立ち位置でいればいいのかについて、デビュー当時からけっこう周到に考えていたように思います。おそらく、かなり政治的な考えをもっているのだろうと思えるのだけれど、政治的な発言は控えているように思えます。多分。


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「いつも見ていたヒロシマ」にしても、それほど激しく反戦を歌っているわけではなく、どちらかというと祈りを捧げているようなムードがあります。アルバムバージョンも好きですが、下のライブ動画は完成度が高くて素晴らしいです。間奏のテナーサックスが深く心に沁み込みます。


社会派フォークシンガーとは違った「POPな脱学生運動路線」で支持を得た1970年代。しかし、1980年代になると世の中に急激に軽薄化の波がやってきます。相対的に拓郎は「重い暗い田舎臭いオヤジ臭い」と受け止められるようになってしまったように思います。私の回りにいた当時の同世代の学生ファンは拓郎離れをしていきました。
こういう背景の中、社会派作品でコラボをしようとする岡本おさみから、拓郎は離れようとしたのでしょう。岡本おさみとのコンビは「アジアの片隅で」以降は「月夜のカヌー」(2003)まで、極端に少なくなります。


しかし、次のアルバム「無人島で」(1981)でも結局「重い暗い」ままだった。松本隆を起用↓↓↓しても、暗いww

「白い部屋」(1981 詩:松本隆)の全歌詞はこちらを参照


横須賀の暗い港に ミッドウェーが入る

疲れた顔の 若い兵士が

泣きながら 泣きながら

人は兄弟だと デモ隊に叫ぶ

だってそれは、7時のニュースだもの

君がテレビの チャンネルを回したら

通り過ぎる事さ

このモチーフは「晩餐」(1973)に通じますね。

1980年代は漫才ブームに続いてとんねるずの快進撃が続き、社会は一気に「軽チャ―」ムードに包まれます。夕食時、深刻なニュースに飽きて、チャンネルを回せば「ザ・漫才」をやっているのが現状でした。

そんな自分(を取り巻く状況)に拓郎(岡本おさみ)は苛立っていたのでは?


いつも見ていたヒロシマ

八月の光が オレを照らし

コンクリート・ジャングル 焼けつく暑さが

オレの心を いらつかせる

いやせない みたせない なぐさめもない

深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて


オレはどこへ行こう 君はどこへ行く


時はおし流す 幾千の悲しみを

時は苦しめる 幾千の想い出を

焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる


子供らに オレ達が与えるものはあるか

安らかに笑う家は いつまであるか

いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ※


八月の神が オレを見つめ

コンクリート・ジャングル 逆らう日々が

オレの心を いらだたせる

笑えない 落ち着けない 安らぎもない

唄う敵と 唄う真実 見えない心をいだいて


オレはどこへ行こう 君はどこへ行く


時は忘れ去る 幾千のごまかしを

時は汚してる 幾千のやさしさを

焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる




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