2020年12月29日火曜日

吉田拓郎「風の街」~東京に吹く風




白い仔犬を 抱きあげる
君はちょっぴり 幼く見える

作詞が喜多条さんであっても、この「君」は100%美代ちゃん(浅田美代子=その後の2番目の拓郎の妻)のイメージですね。

って、当時の原宿でアイドルが白い子犬を抱き上げるようなシチュエーションが有り得たのかはどうか知らんけど、若かりし日の美代ちゃんのその姿を考えると、マジキュートww
その後、美代ちゃんが殺処分反対のムーブメントを起こすことと、関係があったりして。美代ちゃんの殺処分反対のHPはこちら↓↓↓。上の写真の犬は、白くもないし、小さくもないですね(笑)。
https://www.tierlove.jp/
特に美代ちゃんのファンではないし、拓郎との事(不倫?→結婚→離婚)は残念な事故だったんだろうと、さして興味もなく、スルーしてきました。けれど、最近になって見方が変わってきました。拓郎も、美代ちゃんも、時代の渦に巻き込まれながらも、それはそれで貴重な時間を過ごしていたのだろうと。そして謎の多い美代ちゃんが、今更ながらになんだか好きです。
この時に吹いていた風は、深く深く、四角佳子さんとの離別と浅田美代子さんとの出会いが関係していると思います。

ちなみに、下↓↓↓の動画はYOUTUBEから引っ張ってきただけであり、誰かさんがNHKアナウンサーの桑子さんをイメージして作ったようです。





道のむこうで 手を振った
大きな声で サヨナラ言った
あいつを ふと思い出す
今も元気で いるだろか

この曲の冒頭4行の係り結びがどうなっているのか、よく考えたことはありませんでした。手を振ってサヨナラ言ったのはずっと「君=美代ちゃん」と思っていました。手を振ったのは「君」であり、それを見て「あいつ」を思い出したのかなと。 でも、考えてみると、「あいつ」は「道の向こうで手を振って、大きな声でさよなら」を言ったきり、会えていない「なつかしすぎる友達」の可能性もあるかなと、今頃考えるようになりました。もう40年以上経っているのに。遅いわ。そう言えば、「あいつ」の性別は男か、女か、どっちだ?「あいつ」という呼び方からすると男性のようにも思えるのだけれど、今の「君」を見てあいつを思い出しているなら女性なのかもしれない。40年経ってもわからぬわ。

去った「あいつ」の話から切れ目なくサビに入って白い子犬を抱き上げる「君」の話が展開しているので、思考が混乱します。「あいつ」のことをぼんやりと思い出しているそばで、美代ちゃんが子犬を抱き上げたんだろうか。 整理します。
① 「あいつ」が道の向こうで手をふってサヨナラを言っていた事を思い出していると、「君」が子犬を抱き上げた。
② 「君」が道の向こうで手をふってサヨナラを言っているのを見て、「あいつ」を思い出した。そして、「君」が(道の向こうで)犬を抱き上げた どっちなんだ?
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過去形の「あいつ」と現在形の「君」が混在しているのは、時間の移り変わりの速さを表しているのでしょう。いつのまにか、風は時間を運んで行ってしまい、今また新しい女(美代ちゃん)を追い求めている自分(≒拓郎:あくまで作詞は喜多条さん)。 この曲は1976年、四角佳子さんとの離婚後に発表されたアルバム「明日に向かって走れ」の中の1曲。1976年の原宿がどんな様子だったか分からないのだけれど、自分がそこにいるような気分になってしまいます。
「人に言えない悲しみ」には、四角佳子(前妻)さんと彩タン(娘)のことも含まれるのかな。それすら運び去っていく風に無情・無常を感じているからこそ、メロディーには哀愁が漂っているのだと思います。自分の意志や意図が追い付かず、目まぐるしく動く東京での生活。変貌するTOKIO。

幼く見えた「美代ちゃん」にすら、どきりとさせられるような大人の女の片鱗を見せられる拓郎。いやー、薫る新風にイチコロですww

東京に吹く風。

風は運び去り、運び込む。



「風の街」

道のむこうで 手を振った
大きな声で サヨナラ言った
あいつを ふと思い出す
今も元気で いるだろか
白い仔犬を 抱きあげる
君はちょっぴり 幼く見える
表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や人に言えない 悲しみすら
風が運んで しまう街

空に昇って 消えてゆく
子供の赤い 風船一つ
遠い昔の 思い出が
空にポツンと 消えてゆく
僕の名前を 呼ぶ時の
君はちょっぴり 大人に見える
表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や人に言えない 悲しみすら
風が運んで しまう街

作詞:喜多条忠 作曲:吉田拓郎 


2009年の全国ツアーでは、インストゥルメンタルで演奏されました。その様子はアルバム「18時開演」に収められています。ビッグバンドでストリングスを交えて悠々とメロディーが流れ、いつまでも続いて欲しい気分になります。拓郎作品の中でも珠玉の名曲のひとつです。

今もなお東京上空には風が吹いているだろう。一人、空を見上げてみると・・・。



2020年12月27日日曜日

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」って、誰のこと?~「風になりたい」の「私」は誰でしょう【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.6】

誰がアホやねん

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」は、引退の噂が広がっていた1985年の発売。アルバムのタイトル曲です。アルバムで愛した女を「馬鹿」呼ばわりするなんてモラハラと言われかねませんね。

関西では、「アホ」は愛されるべき存在で、褒め言葉の一つです(ホンマか?)。また、女子に「もー、バッカねー」なんて言われるのはちょっと愛情を感じて嬉しかったりしませんか?

この曲の「馬鹿」にも、いくらかの愛情は含まれているような気がします。


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さて、けっこう重い、本論です↓↓↓。


「馬鹿」は誰でしょう

「死んでください」と女性に言われる状況がどういうものか、当時はよくわからなくて、あまり考える気にもなれなくて、この曲について考えることを放置していました。初めてこの曲を聞いた時には、「どーせ森下愛子とよろしくやってんだろー」って感じで、痴話げんかレベルだと考えていました。あるいは、当時の拓郎は引退をほのめかしていたし、ジャケット写真がエレキギターなので「あいつ」は人ではなく、「音楽」ではないかなどと邪推していました。舞姫(1978)にもこのモチーフは使われています。歌詞は松本隆です。

「死にましょう」 ため息まじりの冗談に 「死ねないよ」 年月だけがあとずさる

「死にましょう」 女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」 淋しさだけが押し黙る

今もなお、吉田拓郎に死を迫る「馬鹿」が誰なのかはきちんとは分かっていません。しかし、最近になって、「馬鹿」は森下愛子ではなく、浅田美代子なのかもしれないと思うようになってきました。


「俺が愛した馬鹿」の前年「フォーエバーヤング」(1984)の「君が先に背中を向けてくれないか」では、

君の人生に また陽が登り
明るい笑顔が 戻る日はすぐ来るさ
だから泣かないで 僕を見つめないで

が先に背中を 向けてくれないか

と懇願する拓郎。「君」はおそらく当時の浅田美代子夫人。「俺が愛した馬鹿」でも「背中を向ける」というフレーズが出てきています。

とうとう俺は あいつに 背中を向けた
お前の様な馬鹿は 勝手にすればいい

「君」と「あいつ」が同一人物だとしたら「俺が愛した馬鹿」は美代ちゃんとの事を歌っていることになるのかな・・・と考えています。

「君が先に背中を向けて」欲しかったのだけれど、背中を向けたのは、俺。じゃあ「馬鹿」は美代ちゃんになるのか?美代ちゃんが「死んでください」とか、そんなに重い事を言うかなー?「フォーエバーヤング」(1984)には美代ちゃんとの離別が色濃く漂っており、それが「俺が愛した馬鹿」(1985)へと続いていても不思議ではないです。

「おれが愛した馬鹿」を初めて聞いた時には「森下愛子だー、死んで下さいと迫ってきた―、コワー!」と思っていたのだけれど、どうなんだろう???????

いや、オケイさんの可能性もあるか??・・・ないか。

時間に身を まかすぐらいだったら
行きずりの男に 抱かれた方がいい
褐色の瞳は いつも燃えていた
何かを必死になって 求め続けてる

この一節にも混乱。行きずりの男に抱かれたいほど性欲が強い馬鹿なのか。そんなに性欲を燃やしているのか?そもそも、「時間に身を まかすぐらいだったら行きずりの男に 抱かれた方がいい」と言っているのは「馬鹿」(=あいつ≒美代ちゃん?)なのか「作詞者」(=拓郎)なのか??

歌詞全編に謎のフレーズが埋め込まれていて、「馬鹿」が誰なのかを考えなければ到底読み解くことができません。

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愛されたいから震えている「私」は誰でしょう

この「俺が愛した馬鹿」の謎は同アルバムのラストに置かれている「風になりたい」の謎にも通じます。「風になりたい」を新レーベル「フォーライフ」の新人川村ゆう子に提供したのは1976年であり、四角佳子さんとの離別前後に作られた曲であると考えられます。おそらく当時は、次の妻となる浅田美代子との付き合いがあった期間であると考えられます。そうすると「私を離した時の隙間風」の「私」が美代子さんということになります。

1976年、街中を濡らした長い雨の後に「もうすぐ朝です、少し寒い」というシーンは妄想なのか、実話なのか。2人(拓郎と美代子?)の躊躇・戸惑いが「愛されたいから震えていました」「抱きしめられてもあなたをつかめない」「追いかけたくても一人で残ります」に表れているのか?夜明けに男女の話が傘をさして歩いているって相当シュール。男性が既婚者の拓郎であるとすると、さらに情景の緊張感が増します。追いかけたいのだけれど、倫理的にいけないことは十分に分かっていて、逡巡してしまう2人。


アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)が「風になりたい」で閉じられている意図を考えずにはいられません。拓郎は美代ちゃん(馬鹿)との決別をこのアルバムのラストに記し、捧げたのではないかと。(当時、森下愛子とはうまく行っていなくて、一旦、別れたのかもしれないという考え方も可能かもしれませんが・・・)

美代ちゃんとの離婚は、なぜかテレビメディアで会見をして淡々と長々と語られました。当時の芸能界のしきたりにハマっていて、拓郎らしくないなと。「酷な発言」もあり、引退状態だった美代ちゃんにとっては反論や訂正を述べる機会がなく、アンフェアではないかと感じました。(オケイさんとの時にはラジオで直接リスナーに語るという形をとっています)

アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)は離婚から1年を経て、拓郎の心の底にあった美代ちゃんへの悔恨の想いを反映しているような気がしています。当時の私は、「作曲能力が衰えたので昔の名曲を引っ張り出してきた」のではないかと単純に考えていました。しかし、打ち込みサウンドが無機質に鳴り響きながら終わる「風になりたい」を改めて聴くと、「引退(拓郎はこの時期、直後のつま恋コンサートでの引退をほのめかしている)」を含めた当時の拓郎の気分の重さが見えてくるような気がします。


2度目の隙間風

1976年に吹いていた美代ちゃんとの隙間風は結局のところ結婚という選択をしたことによって埋められます。「私」(美代子)は逡巡しながらも、「私も今すぐ風」となり拓郎を追うことになります。

しかし「気分は未亡人」(1984)の中で、「私」(たぶん美代子)は、「あなたが風なら私もそうしておかしくないわね」と、開き直ります。「あなたは古い」ともう拓郎を追いかけようとははしません。「気分は未亡人」のドライで突き放したような歌詞と曲調・アレンジには2人のパサパサした関係を感じさせられます。隙間風が再び吹いて拓郎は美代ちゃんの元を「通り過ぎ」て戻ってこないことになってしまいます。2人は再び吹く風に舞い、別々の方向へ流れていきます。

2つの「風になりたい」を比べ、その間の拓郎と美代ちゃんのことを考えると、せつな過ぎて・・・

それにしても、「長い雨の後」というフレーズは、

「僕のそばに妻がすわる 傷ついた心開き 長い雨はもうすぐ終わる僕たちは肩を寄せる」(長い雨の後に:1973)に使われています。このモロオケイさん(妻)とのモチーフを美代子に使うのはなんだか失礼な気がします。


じゃあ、「風になりたい」の「私」がオケイさんなのかと言われると、それはー、、、違うのかなぁ。子供もいるのに「もうすぐ朝」つまり暗いうちにおけいさんと街をさまよったというのは何だか、変だなあ。「私」がおけいさんだったらそうとう暗い演歌的なシチュエーションになりますねえ。オケイさんの事を書いた曲(1976)とすると、それをわざわざ「俺が愛した馬鹿」(1984)のラストに持ってくるのは変だなあ。

もしかすると「つかめないあなた(拓郎)」に「戸惑うオケイさん・美代ちゃん」の両方をモデルにしているしているのかもしれないです。まさかのダブルキャスト。女性にとって男は風のように通り過ぎる存在であると。

「風になりたい」のメロディーは、悲しみを感じると同時に何だか愛が溢れていて、どうも躊躇する美代ちゃん、揺れる美代ちゃんの心情を表している気がします。

美代ちゃんが歌う「風になりたい」を妄想しています。もし、あの不安定な歌唱力でボソボソと美代ちゃんがこの曲を歌ったら、泣いてしまいそうです。

「風になりたい」の「私」が美代ちゃんなのかオケイさんなのか。

「俺が愛した馬鹿」の「あいつ」が美代ちゃんなのか、森下愛子なのか。

それによってはずいぶん違う話になってしまいます。「誰」に何故歌ったのかによってずいぶん意味が違って聴こえてきます。曲の発表からどちらも数十年が経っていますが、私はどちらも美代ちゃんではないかと思うようになりました。

「もしかしたら3人の妻の誰でもないかもしれない」「どこかのオネエチャンとの話?」とか??妄想が止まらない―!

「俺が愛した馬鹿」の歌詞はこちらを参照

「風になりたい」の歌詞はこちらを参照

「気分は未亡人」の歌詞はこちらを参照


2020年12月26日土曜日

吉田拓郎の名曲「シンシア」にツッコンでみた

 吉田拓郎自身歌唱の作品で一番最初に感銘を受けたのが、「シンシア」(1974/ 7/1)でした。今は竜飛崎の方が良いと思うこともあります。どちらも名曲ですよね。

「Live73」(1973)と「人生を語らず」(1974)の間に出されたシングルということになります。まさに、ミュージシャンとしての吉田拓郎の絶頂期ですね。

しかし、ずっと混乱しています。

①「君の部屋のカーテンやカーペットは色褪せてはいないかい」

って、余計なお世話な気がします(まあ、多分、「君は色褪せないでね」という意味なのかな)。

②「君の部屋に僕一人いてもいいかい」

って、シンシア(≒南沙織?)にとってはストーカーだし、奥さん(おけいさん)にとっては浮気でしかないww

③「人ごみにかくれて肩をすぼめて自分を見つめたとき 過ぎ去った夢が崩れ落ちる 長い旅が終わる」

ここ、大好きな割に、よくわかんないです。「旅」は多分「心の旅」(笑)でもあるのだろうけど、20代で夢が崩れて旅が終わるのはえらい儚いなあと。

④リアルシンシア(=南沙織)あるいは(詞の上での)妄想シンシアって、拓郎や(詞の上での)主人公とどういう関係なんだろう?

⑤「君の腕で眠りたい」

とあるけど、それは実現可能な願いなのか、それとも妄想に近い願望なのか?
それとも既に眠ってみたことあるんか?

⑥「君の腕で眠りたい」

「人生を語らず」(1974)には当時の妻、四角佳子さんとの確執を感じられる曲がおさめられており、翌年には離婚という結果になっています。オケイさんは、いったいどんな気分でこの曲を聞いたのでしょうか・・・。

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うー、45年来の疑問と妄想が暴走しています。

 何もかも愛ゆえの事だったと言ってくれ(永遠の嘘をついてくれ:1995)

それにしても、メロディーもアレンジも歌唱も、秀逸ですね。
------------- かまやつ:シンシア、帰る場所も かまやつ:シンシア、ないのなら 吉田:シンシア、君の腕で 吉田:シンシア、眠りたい ------------- という、終盤の拓郎のカットインプレーも素敵です。何度聞いても、やや甘ったるいかまやつさんボイスに、ちょっとコワイ拓郎ボイスが割り込んでくるところでぐっと全体がしまってカッコイイです。 同時に、シンシアの腕の中で眠るのは、「俺だーーーっ!」と言わんばかりの当時の拓郎の勢いが可笑しくって、可笑しくって。 「ここは俺に歌わせろ」って感じだったのでしょうかw


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