1969年、拓郎の上京物語
東京都の人口は明治初期から現在まで、太平洋戦争時の落ち込みを除いて順調に増加してきており、中でも戦後の30年間の伸びは急な上り坂になっています。 その後、1975年あたりからは鈍化が見られ、横ばい状態となります。成熟期に入ったと考えてもいいと思います。
東京都の年齢3区分別人口の推移
1975年といえば、拓郎のつま恋オールナイトコンサートですね。
1970年代はとにかくあらゆる面で社会の変化量が大きかったように思います。拓郎にとっても激動の時代です。今になって考えると
沢田研二の「TOKIO」(1980)は、成熟した国際都市東京を見事に表現していたのだなあと考えさせられます。
1975年までには大衆歌謡の世界で東京への上京物語を歌った作品は多数あったようですが(知らんけど)、その後、演歌(的な歌謡曲)の衰退とともにそういった作品は減っていった気がします(知らんけど)。「北の宿から」(1975)「津軽海峡冬景色」(1977)などは、都会からの敗退を歌っています。今考えれば演歌の「残党」であったのかと。
地方出身者であっても単純労働(出稼ぎとか)ではなく、都会のきらびやかな生活をものにする条件がかなり整ってきたというのが当時の状況でしょうか(知らんけど)。暗くてジメジメした演歌や気難しい全共闘の時代から、明るくポップな商品が受け入れられる1970年代が幕開けたように思います。
1975年。「木綿のハンカチーフ」はある意味、上京物語ソングの集大成だったのかもしれません。おお、ふきのとうの「初夏」もこの年か。
夏の初めの昼下がりは とても馴染めず淋しくなる
矢沢永吉(広島出身)・井上陽水ら昭和の面々(福岡)・大瀧詠一(岩手)・中島みゆき(北海道)なども食うに困ったというほどではないのだけれど、都会での成功を目指して上京してきた人々ですね。
彼らに比べて坂本龍一・松任谷由実・加藤和彦・細野晴臣らは関東圏です。生まれや育ちの違いは、作風にもかなり影響しているように思います。
拓郎(広島出身、1969年に上京)の作品の中にも、特に1975年までの歌詞には「都会の寂しさ」「都会への憧れと敵意」「望郷」が描かれているように思います。上京は多感な青春期の孤独や不安と重なって、独特のメロディーも生み出されました。
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街を出てみよう 今住んでいるこの街が 美しく緑に覆われた 心のふるさとだったとしても 街を出てみよう 汽車に乗ってみよう
「こうきしん」(1970)
ふるさとが好き 生まれたとこが好き
「ふるさと」(1971)
これが自由といういものかしら 自由になるとさみしいのかい
「どうしてこんなに悲しいのだろう」(1971)
麦わら帽子はもう消えた 田んぼの蛙はもう消えた
「夏休み」(1972)
真新しいスーツケースをさげて 集団就職で今着いたらしい 妙に腰の低い男が先頭に立って 何とか会社の旗など振り回している (中略) どうですか 東京って奴に会ってみて どうですか 東京って奴のご挨拶の仕方は
「制服」(1973)
ラッシュアワーをごらんよ 今朝もまた 見出し人間の群れが 押し合いへしあい
「ひらひら」(1973)
都会は嫌だと女に言ってみな どこかに行こうと誘ってみなよ
「三軒目の店ごと」(1974)
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どのラインも都会の煌びやかさ・喧騒・冷たさに戸惑う、上京した若者たちの心情をよくとらえていると思います。街を出てゆく方法が「汽車」だったんですよね。新幹線ではなく、汽車です(実際は、後輩が運転する車で初上京したとのことです)。
私もそこそこの年に住んでいますが、初上京した折にはそのバカでかさと冷たさになんだかセンチメンタルな気分を惹き起こされました。いや、令和になっても「東京って奴」には同じような気分を惹き起こされます。憧れもあり、哀しさもあり・・・・
上記の作品群は「演歌的なフレーバー」の呪縛をかなり抜け出したポップなメロディーとアレンジで「上京物語を」聞かせてくれます。ちょっとオシャレな感じ?でも、どこか拓郎独特の民謡フォレーバーがただよっていて、好きです💓💓💓ww
広島からまさに「街を出てみよう」と東京へと出てきた拓郎。多くの「普通の若者」も東京という波に揉まれ、それぞれの物語の中で様々な思いをしてきたのだろうけど、拓郎が身を投じた場所(音楽界)は常人では考えられないような激変を遂げる世界だっただろうと思います。
「制服」は当時の東京で集団就職にやっときた女の子たちを描き、時代を感じさせられます。彼女たちを迎える東京の甘い夢と厳しい現実。土地に縛られ、よその土地に移動することが非常に困難であった戦前は、農業を中心とする地方で「地元産業に就くというジモティーな人生」がほぼ一択であったでしょう。戦後は長男優遇の制度のせいで食うに困って都会に出てくるパターン(明治生まれだった私の祖父母世代がそうでした)から、TVが牽引するきらびやかな消費社会にあこがれや夢を抱いて都会に出てくるパターンへと、徐々に移り変わっていきます。欧米化してゆく都会の様子を家にいながらTV(動画)でキャッチができるようになったというのは、大きいですね。
それでも、都会が好きだ
1970年代後半にも「都会での生活」を歌った拓郎作品は頻出しています。
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北から吹いた風に追われて 旅立つ僕を許してくれよ 寒い都会に行こうと思う そこで仕事を探すつもりだ
「水無川」(1976)
表参道 原宿は 懐かしすぎる友達や 人に言えない悲しみすら 風が運んでしまう街
「風の街」(1976)
そよぐ風が僕の髪を通りすぎて 街がいつもの静けさに つつまれる頃 思うがままに足をはこべば 靴音のメロディー やさしいあの娘の店はもう近い
「午前0時の街」(1976)
淋しいよ むなしいよ それでも、都会が好きだ 風の街は 誰もが一人
「乱行」(1977)
何に酔う 何にすがる 何が欲しい 何もいらぬ せめてもの レミーマルタンをだきしめよう
「わけわからず」(1978)
故郷に帰ろうなんて言って 帰る故郷なんかありゃしねえじゃないか
「人間なんて」(1979:篠島ライブバージョン)
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1970年代後半の作品には「都会の絵の具に染まってゆく拓郎」の姿が見え隠れします。「乱行」ではついに「それでも、都会が好きだ」と言ってしまいます。五木ひろしは「ああ、誰にも故郷がある故郷がある」(ふるさと:1973)と歌っていましたが、1970年代は地方の都市化や農業離れが進みます。都市の都市化も進み、下水(水洗トイレ)が完備され、銭湯は衰退します。「テレビを媒介とした一億総白痴化」(大宅壮一:1957)がテレビの全盛期である1980年に完成されたと考えると、カラーテレビの普及が進んだ1970年代の変化量はたいへんなものがあったと思います。1970年代前半の拓郎作品にも後半の拓郎作品にも「哀愁」がありますが、その色はずいぶん変わってきています。
故郷を断ち切る
太田裕美「木綿のハンカチーフ」(作詞はその後の拓郎の盟友、松本隆)の【僕】が「毎日愉快に暮らす街角、僕は僕は帰れない」と歌ったのはおそらく「上京物語」のターニングポイントだったのだろうと思います。
1960年代までは、地方社会のしがらみはかなり強固な束縛があったと思います。拓郎の青春時代、1970年代の前後10年あたりには令和の田舎よりずっと「つながり」も「しがらみ」も強かったと思います。農業という産業はもちろんのこと、学校・会社(縁故採用)・家族(家父長制)など、地方独特の制度や仕組みは窮屈なものだったでしょう。田舎の人情がある「つながり」と閉鎖的な「しがらみ」。拓郎は1969年、上京によってその両方を断ち切りました。
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故郷よさらばと家を出て 車に積みこんだ夢と出る 都会に憧れなんてガラじゃない 古臭い 常識と 争ってみたい
車を降りた瞬間から(1990)
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「つながり」を切って孤独を背負い、「しがらみか」ら逃れて自由を得た状況で、「都会のしがらみ」「都会のしきたり」との闘いが始まります。そんな中で生まれた1970年代の拓郎の作品群は、まさに戦後30年(1975)前後を物語る貴重な文化遺産だと思います。見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転したのがちょうど1970年であったのは、とても象徴的です。「結婚しようよ」(1972)に描かれる自由な婚姻は、時代を映す鏡だったのでしょう。最初の結婚も、おそらく「古臭い常識との争い」という一面があったのだろうと考えています。拓郎が上京した当時の東京は、写真や映像で見る限り、かなりの田舎ですね。
1980年以降にも、たくさんの「上京物語」や「都会の哀愁」を歌った作品は作られてきました。もちろんそれらの作品群もとても好きです。
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その頃はまだ若者も あふれるほどの人込みはなく
ほんのひと固まりの芸術家気取りが
明日について熱弁をふるっていた
(中略)
原宿表参道は 誰にも語られなかったドラマを 懐かしい人がやってくると そっと話しかけてくれるに違いない
「街へ」(1980)
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この曲↑のアウトロはいつまでもアウトせずに続いてほしいと思うくらい大好きです。が、1980年以降はどうしても1970年代を振り返ったりそれと比較したりした作品が多く、「回顧感」が強いです。1970年代の吉田拓郎は、本人が「当時の自分は越えられない」と言う通り、神がかり的な存在なのです。
吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】