あまり関心はなかったのだけれど
アルバム「吉田町の唄」(1992?)の曲、「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(以下、「チンチン」)について、考えてみる機会を得ました。
実は「チンチン」を聴いた1992年は「また御大が何かエロそうな詩を書いてるわ」ぐらいの認識で、何も考えずに聞き流したままでした。下品な「チン」の連呼に嫌気がさして、ほぼスルーでした。「チンチン」が「よく冷えている」という意味の形容詞であったとしても、何もそんなに「チン」を連呼しなくてもよいのにと。自分の中では1980年以来、年を追うごとに残念感を増してゆく拓郎を象徴する曲の一つでした。
それから30年足らずの歳月を経て、SNSでのやりとりをきっかけに、初めてじっくり詩を読んでみる機会を得ました。詩に描かれる情景や当時の拓郎の想いを想像するうちに、メロディーも含めて「チンチン」は好きな曲になりました。
それにしても、「チンチンチン」でなければ、コカ・コーラボトラーズも採用してくれたかもしれません。やらかし気味な言動が多い拓郎。ファンとしても、もう少し抑えて欲しかったです。何もこのエロい詩の曲名に「チンチン」をぶっこむことはなかったのに。"Coca-Cola is on my side" とか何とかでとどめておくことはできなかったのでしょうか。
コカコーラ社からの要請を受けて作曲したわけでもなさそうなのも悲しいです。それほどにコカコーラがこの曲になくてはならないアイテムとして存在しているという事なのか、それともいつもの気まぐれなのか。拓郎はコーラやコーヒーが飲めなかったという情報もあり、「なんじゃそりゃーーー感」も。蓮舫議員の名セリフではないですが、「ペプシじゃだめなんですか」と言ってみたくもなります。矢沢永吉は「YES MY LOVE」を「YES COKE YES」と替えて、1982年の コカ・コーラ CMイメージ・ソングを歌ったのに・・・
運命の口づけで 言葉をふさがれ
もどかしい昼下がり 「暑いわぁ」
「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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拓郎がこの曲の中で懐古しているのはおそらく、青春時代、1970年前後の話(イメージ)だろうと思います。エアコンはなく、下宿のような安い部屋での出来事でしょう。若い二人は暑い夏の昼下がり、暑い部屋で二人きりになり、初めての日を迎える。女性側は
地図にない海を旅する 映画みたいな二人になりたい
「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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と、けっこうロマンチックな夢を見ている。男性側は、どうだったのでしょう。かなり、たぎっていたのでしょうね(笑)。いや、プレイボーイの拓郎にとっては2人きりの状況を作るのは手慣れていたのかもしれません。
もちろん甘い口づけでは終わっていないのでしょう。ふさがれた言葉は、「いやよ」の様な気がします。「いやよ」と言いながらも「もどかしい」と言っているのだから、女性側も元々まんざらでもない。揺れる心。
男の側は「暑いのだったら・・・・・・」と、口説きそうですw
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稲妻が胸を貫く 結ばれてどこへ飛び出そう
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と、女性にとってはけっこうな衝撃だったようです。もしかしたらロストバージンだったのかもしれません。「痛いわぁ」って書いてあるし。それにしても「痛いわぁ」って直接的過ぎる表現じゃないですか??・・・痛いのは心も、でしょうね。
それは、どの程度本気だったのでしょう
ここで疑問が残るのは、拓郎がこの詩を書いた動機です。この出来事がどこまで本当なのかは本人達だけが知っていることだろうし、もしかしたら全部拓郎の妄想、作り話なのかもしれません。いずれにしても若い時の性的体験は
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忘れないでねぇ
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と、過去の想い出となるケースが多いのでしょう。2人は結婚へとは向かわなかったのでしょう。(いや、もしかしたら四角佳子さんとの話の可能性もある??)
男性(≒拓郎)にとってこの恋がどの程度本気だったのか、あるいはどの程度遊びだったのか。若い時期、ほとばしり先走る性欲によって、本当にそこに愛があったのかどうかわからなくなるというのは男性あるあるです。いずれにしても、拓郎本人が3度の結婚という長い歳月を経て回想していることを考えると、拓郎にとっても何か心に残る「情」を引きずっているのかもしれません。
私は多分、「忘れたくないのは主人公の女性でなく拓郎なのかも」と思っています。この「チンチン」を聴いてから30年を経てそう思っています。拓郎が過ぎてしまった恋、実ることのなかった恋をただ懐かしいというだけではなく、愛おしく感じているように聴こえています。たとえ「ちょっと遊びの恋」であったとしても。もしかすると、この女性より男性の方がロマンチストなのかもしれません。
まず2度と会うことはない人、会えたとしても再び何をするわけでもない人って、どんどん増えていきますよね。「そういう事があった女性」に限らず。
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愛した人もいる
恋に破れたこともある
なぐさめたり なぐさめられたり
「街へ」(1980)
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この作品↑↑↑にもつながるような気がします。
「いつも」とは?「そこ」とは?
「チンチン」の曲名の中に「コカコーラは『いつも』あった」とあります。非常に現実的に解釈するなら、冷蔵庫が行為をしている現場のすぐそばにあったから、いつも「チンチンチン」と冷えていたと考えるのが順当でしょう。二人は行為の後に、スカッと爽やかにコカコーラを飲むのが習慣になったのかもしれません。
もう少し広義に妄想wすると、
こうした拓郎の青春の数ページには、この「チンチン」の女性との場面だけではなく、その他の女性との場面にも「コカコーラ」が「いつも」「そこ(現場)」にあるイメージなのかもしれません。
もっと広義にとらえると、
青春の1ページには(女性との行為の場面に限らず)、「いつもコカコーラが」「チンチン」に冷えて存在していたというイメージなのかもしれません。それこそ、「コカコーラ賛歌」ですねw
もしかしてだけど、
エアコンも内風呂もなかった当時の若い世代の住居。作品から性的な行為の生々しさを消すために「スカッとさわやかコカコーラ」の清涼感を利用したのかもしれませんww
いずれにしても、何故か穏やかな拓郎が見えるような気がします。「チンチンチン」というかなりふざけた表現の仕方も、心のどこかに引っかかっていた過去の女性に対する罪悪感を、遠い目で見て笑って許しているようにも聴こえてきます。
過去は「いつまでも」「そこ」にある
このアルバムでは「夏・二人で」に感銘を受けていたのだけれど、最近は「チンチン」とセットで感銘を受けています。
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暑い夏の真夜中に 僕たち突然気がつく
だるい身体を畳の上に 危なっかしく投げ出したその後で
ひっそりと ひっそりと できるだけ ひっそりと
「夏・二人で」(作詞・作曲:及川恒平 1972)
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若く危くひそやかで儚い夏の日の恋。これは「夕立」(1973)の時代にもつながる世界でしょう(作詞は岡本おさみ)。エアコンもない部屋でひっそりと暑い熱いことをして、一通りが終わってから、「そこ」で、仲睦まじくコカコーラを二人して飲む姿は、なんか微笑ましいです。
この曲が入ったアルバム「吉田町の唄」はラストの曲で、ついに「僕」は「昔の女」に呼び出されます。
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少しはぐれたけれど 今日まで生きてきたよ
少しねじれたけれど 今日まで生きてきたよ
僕を呼び出したのは さがしものがあるの
僕を呼び出したのは どこかへ行ってみたいの
「僕を呼び出したのは」(作詞:石原信一 1992)
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長い歳月を経てしまった二人は、たぶん探し物に手が届くことはないだろうし、どこへも行けない気がします。
「君」がいないまま過ぎてしまった日々の重さはどうにもならないのでしょう。動かしようがない。でも、「そこ」に置いてきた「愛」や「情け」たちは、今もなお、「いつまでも」「そこ」にあるような気がしています。(これは、筆者の考えです😊)
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