2021年6月26日土曜日

吉田拓郎「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」~そこってどこ 【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.2】

あまり関心はなかったのだけれど

アルバム「吉田町の唄」(1992?)の曲、「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(以下、「チンチン」)について、考えてみる機会を得ました。

実は「チンチン」を聴いた1992年は「また御大が何かエロそうな詩を書いてるわ」ぐらいの認識で、何も考えずに聞き流したままでした。下品な「チン」の連呼に嫌気がさして、ほぼスルーでした。「チンチン」が「よく冷えている」という意味の形容詞であったとしても、何もそんなに「チン」を連呼しなくてもよいのにと。自分の中では1980年以来、年を追うごとに残念感を増してゆく拓郎を象徴する曲の一つでした。

それから30年足らずの歳月を経て、SNSでのやりとりをきっかけに、初めてじっくり詩を読んでみる機会を得ました。詩に描かれる情景や当時の拓郎の想いを想像するうちに、メロディーも含めて「チンチン」は好きな曲になりました。

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それにしても、「チンチンチン」でなければ、コカ・コーラボトラーズも採用してくれたかもしれません。やらかし気味な言動が多い拓郎。ファンとしても、もう少し抑えて欲しかったです。何もこのエロい詩の曲名に「チンチン」をぶっこむことはなかったのに。"Coca-Cola is on my side"  とか何とかでとどめておくことはできなかったのでしょうか。

コカコーラ社からの要請を受けて作曲したわけでもなさそうなのも悲しいです。それほどにコカコーラがこの曲になくてはならないアイテムとして存在しているという事なのか、それともいつもの気まぐれなのか。拓郎はコーラやコーヒーが飲めなかったという情報もあり、「なんじゃそりゃーーー感」も。蓮舫議員の名セリフではないですが、「ペプシじゃだめなんですか」と言ってみたくもなります。矢沢永吉は「YES MY LOVE」を「YES COKE YES」と替えて、1982年の コカ・コーラ CMイメージ・ソングを歌ったのに・・・


あまり関心はなかったのだけれど、エロいわぁ

拓郎の作品には性愛について書かれた曲が多く、そのほとんどに直接的な表現が使われています。
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運命の口づけで 言葉をふさがれ
もどかしい昼下がり 「暑いわぁ」

  「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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拓郎がこの曲の中で懐古しているのはおそらく、青春時代、1970年前後の話(イメージ)だろうと思います。エアコンはなく、下宿のような安い部屋での出来事でしょう。若い二人は暑い夏の昼下がり、暑い部屋で二人きりになり、初めての日を迎える。女性側は
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地図にない海を旅する 映画みたいな二人になりたい
  「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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と、けっこうロマンチックな夢を見ている。男性側は、どうだったのでしょう。かなり、たぎっていたのでしょうね(笑)。いや、プレイボーイの拓郎にとっては2人きりの状況を作るのは手慣れていたのかもしれません。
もちろん甘い口づけでは終わっていないのでしょう。ふさがれた言葉は、「いやよ」の様な気がします。「いやよ」と言いながらも「もどかしい」と言っているのだから、女性側も元々まんざらでもない。揺れる心。
男の側は「暑いのだったら・・・・・・」と、口説きそうですw
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稲妻が胸を貫く 結ばれてどこへ飛び出そう
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と、女性にとってはけっこうな衝撃だったようです。もしかしたらロストバージンだったのかもしれません。「痛いわぁ」って書いてあるし。それにしても「痛いわぁ」って直接的過ぎる表現じゃないですか??・・・痛いのは心も、でしょうね。


それは、どの程度本気だったのでしょう

ここで疑問が残るのは、拓郎がこの詩を書いた動機です。この出来事がどこまで本当なのかは本人達だけが知っていることだろうし、もしかしたら全部拓郎の妄想、作り話なのかもしれません。いずれにしても若い時の性的体験は
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忘れないでねぇ
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と、過去の想い出となるケースが多いのでしょう。2人は結婚へとは向かわなかったのでしょう。(いや、もしかしたら四角佳子さんとの話の可能性もある??)
男性(≒拓郎)にとってこの恋がどの程度本気だったのか、あるいはどの程度遊びだったのか。若い時期、ほとばしり先走る性欲によって、本当にそこに愛があったのかどうかわからなくなるというのは男性あるあるです。いずれにしても、拓郎本人が3度の結婚という長い歳月を経て回想していることを考えると、拓郎にとっても何か心に残る「情」を引きずっているのかもしれません。
私は多分、「忘れたくないのは主人公の女性でなく拓郎なのかも」と思っています。この「チンチン」を聴いてから30年を経てそう思っています。拓郎が過ぎてしまった恋、実ることのなかった恋をただ懐かしいというだけではなく、愛おしく感じているように聴こえています。たとえ「ちょっと遊びの恋」であったとしても。もしかすると、この女性より男性の方がロマンチストなのかもしれません。
まず2度と会うことはない人、会えたとしても再び何をするわけでもない人って、どんどん増えていきますよね。「そういう事があった女性」に限らず。
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愛した人もいる
恋に破れたこともある
なぐさめたり なぐさめられたり
それもまた大きな一瞬だった
  「街へ」(1980)
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この
作品↑↑にもつながるような気がします。
「忘れないでねぇ」が妙に切ないです。私も年取ったなあ。


「いつも」とは?「そこ」とは?

「チンチン」の曲名の中に「コカコーラは『いつも』あった」とあります。非常に現実的に解釈するなら、冷蔵庫が行為をしている現場のすぐそばにあったから、いつも「チンチンチン」と冷えていたと考えるのが順当でしょう。二人は行為の後に、スカッと爽やかにコカコーラを飲むのが習慣になったのかもしれません。
もう少し広義に妄想wすると、
こうした拓郎の青春の数ページには、この「チンチン」の女性との場面だけではなく、その他の女性との場面にも「コカコーラ」が「いつも」「そこ(現場)」にあるイメージなのかもしれません。
もっと広義にとらえると、
青春の1ページには(女性との行為の場面に限らず)、「いつもコカコーラが」「チンチン」に冷えて存在していたというイメージなのかもしれません。それこそ、「コカコーラ賛歌」ですねw
もしかしてだけど、
エアコンも内風呂もなかった当時の若い世代の住居。作品から
性的な行為の生々しさを消すために「スカッとさわやかコカコーラ」の清涼感を利用したのかもしれませんww

いずれにしても、何故か穏やかな拓郎が見えるような気がします。「チンチンチン」というかなりふざけた表現の仕方も、心のどこかに引っかかっていた過去の女性に対する罪悪感を、遠い目で見て笑って許しているようにも聴こえてきます。


過去は「いつまでも」「そこ」にある

このアルバムでは「夏・二人で」に感銘を受けていたのだけれど、最近は「チンチン」とセットで感銘を受けています。
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暑い夏の真夜中に 僕たち突然気がつく
だるい身体を畳の上に 危なっかしく投げ出したその後で 
ひっそりと ひっそりと できるだけ ひっそりと

  「夏・二人で」(作詞・作曲:及川恒平 1972)
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若く危くひそやかで儚い夏の日の恋。これは「夕立」(1973)の時代にもつながる世界でしょう(作詞は岡本おさみ)。エアコンもない部屋でひっそりと暑い熱いことをして、一通りが終わってから、「そこ」で、仲睦まじくコカコーラを二人して飲む姿は、なんか微笑ましいです。

この曲が入ったアルバム「吉田町の唄」はラストの曲で、ついに「僕」は「昔の女」に呼び出されます。
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少しはぐれたけれど 今日まで生きてきたよ
少しねじれたけれど 今日まで生きてきたよ
僕を呼び出したのは さがしものがあるの
僕を呼び出したのは どこかへ行ってみたいの

  「僕を呼び出したのは」(作詞:石原信一 1992)
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長い歳月を経てしまった二人は、たぶん探し物に手が届くことはないだろうし、どこへも行けない気がします。

「君」がいないまま過ぎてしまった日々の重さはどうにもならないのでしょう。動かしようがない。でも、「そこ」に置いてきた「愛」や「情け」たちは、今もなお、「いつまでも」「そこ」にあるような気がしています。(これは、筆者の考えです😊)


2021年6月19日土曜日

吉田拓郎「結婚しようよ」におけるフラットな男女関係 【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.1】

1971年

最初に断っておきます。私は文化人類学者、その他の学者ではありません。以下に書くことはただの一般人の思い付きレベルの「吉田拓郎×結婚論」です。
吉田拓郎について語られる場合、一般的には最初のヒット曲「結婚しようよ」とレコード大賞受賞曲「襟裳岬」が取り上げられることが多いことはもう、仕方がないかと往年のファンである私は諦めています。


この2曲が素晴らしい曲であることは私も大いに同意します。一方で、この2曲ばかりに話題が振られてしまうので、もう少し他の曲にもスポットライトを浴びせて欲しいなあと思ってしまいます。とかいう事情はおいといて・・・ブツブツ。


「結婚しようよ」が世に出たのは1971年、その前年、世の中では1970年には見合い結婚と恋愛結婚の数が逆転しています。
閉鎖的な地域社会・農耕社会から脱出する自由がなかった時代は相当長く続いたようです。1960年代ぐらいまでは、婚姻の自由度はかなり低かったのではないかと思われます。村全体の姓が(例えば)「竹本」であるなど、運命共同体としての「せまい範囲でのほぼ身内・既知の間での結婚」が当たり前だったと聞いています。「結婚は本人同士がするのではなく、家と家がするものだ」などと、私の両親(昭和一桁世代)はよく言っていました。格差婚は避けられることが多く、「近所のお見合い叔母さん」に勧められた相手を受け入れることが無難な生活を続けるコツだったのかもしれません。


自由な結婚、フラットな男女関係

第二次産業や第三次産業の発展と共に都市部への人口流入が加速するとともに、日本的な男尊女卑社会の変革が求められてきます。そんな状況下で、「自由な人、吉田拓郎」が日本のポップシーンに出現します。

「男子、厨房に入るべからず」と言った価値観が支配的であった1971年の段階で、彼はこう歌います。

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僕の髪が 肩まで伸びで
君の髪と 同じになったら
約束通り 街の教会で 結婚しようよ
  「結婚しようよ」(1971)
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今の世の中から見れば、「普通じゃん」で片づけられそうな歌詞ですが、おそらく当時の地方の結婚観をひっくり返すような歌詞であったのだろうと思います。そもそも「男が髪を伸ばす」ことについては、小学生だった私でさえ違和感がありました。
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髪と髭を 伸ばして
ボロを着ることは 簡単だ
  「ビートルズが教えてくれた」(1973)
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当時の私たち小学生にとって髪を伸ばすなんてことは、仲間外れを覚悟せねばならないぐらいの危険行為でした。中学生に至っては男子は丸刈りがデフォルトであった時代です。
こんな時代に「君の髪と同じ」になるぐらいまで髪を伸ばした挙句に結婚って、自由過ぎます、素敵です。
しかも、「街の教会で」っていうのも、規格外です。明治の廃仏毀釈から太平洋戦争時代に至るまで神社が世の中を支配してきていて、まだこの時代はその余韻が残っていたのでは?花嫁衣装たるものはあくまで和装(白無垢とか角隠しとか)であり、洋装(ウェディングドレス)は「お色直し」としてのオプションであったと私は理解しています。
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白いチャペルが 見えたら
仲間を呼んで 花を貰おう
  「結婚しようよ」(1971)
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仲間を優先している感。「親は?親族は!この親不孝者めが!!」と、なってしまいそうな情景描写です。自由過ぎて、素敵です。実際、拓郎はこの年の6月に長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子さんと結婚式(一度目)を挙げました。
親戚家族・勤め先を巻き込み、しがらみの世界に巻き込まれる「儀式としての重い結婚観」をこういともたやすく軽いタッチでいてしまう拓郎選手に、当時の若者は拍手を送ったのだと思います。(※実際に親族を呼んだかどうかは知りません)
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二人で買った 緑のシャツを
僕のおうちの ベランダに並べて干そう
  「結婚しようよ」(1971)
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ちょっと待て、ベランダって何?(笑)
私の家(そこそこ都会)には「物干し」しかなかった。地方であれば洗濯物は庭干しだったのでは。多分、全国的にそうだったと思います。それを「ベランダ」って欧米か?
素敵すぎます。
※「物干し」には普通に平気に下着が干してあり、けっこう衆目に晒されていました。いや、男子としては平気ではなかったかも(笑)。
ベランダに干してあるのはもちろん下着ではなく、「緑のシャツ」です。素敵です。
「緑のシャツ」がTシャツなのかポロシャツなのか普通の前開きボタン付きのシャツなのか、イメージは固まらないです。当時は雑誌「POPEYE」(1976~)も「HotDog」(1979~)も発売されておらず、男子のオシャレなんてまだまだ下火。当時のファッションを考えるとあまり緑のシャツはクールなイメージにはならないです(笑)。あくまで、70年代初頭のファッション。それでも、「二人で買った緑のシャツ」なのです。女の子と2人でペアルック(死語?)を買いに出かけるという超オシャレな生活様式です。当時としては夢のような世界です。羨ましいです、軟弱です(笑)。
まだまだ、1970年の男子は角刈りで命を懸けて「柔道一直線」なのです。でなけりゃ、七三分けに黒縁眼鏡です。バンカラでなくっちゃ、まじめでなくっちゃ。


髪の毛を女性にあわせ、シャツを2人で買って、並べて干す。こうした「結婚しようよ」の世界観はフラットな新しい男女関係を示していると思います。当時、この世界観はとっても新鮮で斬新だったのではないかと想像します。ちゃぶ台返しという吉田拓郎選手の得意技です(笑)。
拓郎が幼少期に体が弱く(体育会系ではなく)、父親不在の女性の多い家庭で育った影響もあり、男尊女卑から少し遠い環境にいたことがこの曲の世界観に反映されているのではないかと思います。

完全にフラットなのか?

フラットな男女関係、自由な二人の世界。拓郎は「明るい自由な世界」にこだわり続けてきました。
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僕らは今も自由のままだ
  「AGEIN」(2014)
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自由を追い求めると、自分の自由を主張する分、他人の自由も守らなければなりません。
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みんな幸せになっていいんだ
人に迷惑さえかけなければね
  「ビートルズが教えてくれた」(1973)
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そういう意味では、家族(伴侶)である女性の自由を保障しない事には「自分の自由」は成り立たなくなってしまいます。「戦に行く代わりに男の我儘は許されるべきだ」という時代が終わり、「男が主な働き手であるのだから男の我儘は許されるべきだ」という時代も終わってゆきます。そこに、拓郎、そして昭和後期~令和の時代に至るまでの「戦後男子」の葛藤と苦悩が繰り広げられることになるのです。
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恋をするなど それこそ不自由で
仕組みやルールや 女のモラルなど
あければ勝ち誇った 女の素顔
あなたは いい人ね さようなら
  「わけわからず」(1978)
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と、拓郎殿、1970年代末にはだいぶ混乱の様相を示しています。「結婚しようよ」で提示した「フラットな男女関係」を「日常に於いて完成させること」は団塊世代である拓郎にとって、世代的な限界もあったのだろうと思います。四角佳子さん・浅田美代子さんとの結婚生活には「あくまでフラットな関係性」と「やっぱり亭主関白な様相」の両方が見え隠れしているように思います。

陽と陰・躁と鬱

拓郎は大学時代に応援団という男臭さの象徴の様な組織に属していました。どちらかというと喧嘩っ早い武闘派ミュージシャンというイメージで語られることが多かったです。
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拓郎って酔うと陽気になるんだねって
君に教えられたよ
そう言えば 君はいくつだったっけ
僕のイメージってそうらしいよ 女の子の間では
陰気で怖いんだってさ
  「Y」(1981)
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誰も皆、二面性を持っていると思います。拓郎はかなり多面的です。
「結婚しようよ」は拓郎独特の「躁状態」を表す曲で、どちらかというと少数派です(他には「たくろうちゃん」(1971)「あの娘といい気分」(1980)とか?)。
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もうすぐ春が ペンキを肩に
お花畑の中を 散歩に来るよ
  「結婚しようよ」(1971)
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「結婚しようよ」のようにメランコリックな要素(哀愁感)がほぼない拓郎の曲は珍しいのでは?
浅田美代子との結婚生活を歌ったと言われる「カンパリソーダとフライドポテト」(1977)は美代ちゃんが怒るほど、哀愁に満ちています。

どちらかというと拓郎の作品には鬱・哀愁が含まれている場合が多いと思います。なので、「結婚しようよ」が代表曲として取り扱われ続けることはちょっと違うかなと言うのが往年のファンとしての私の気持ちです。「結婚しようよ」は拓郎作品群に於いて最初のスマッシュヒットでしかなく、その後、怒涛の実生活と実生活を反映した作品が続きます。「お花畑の中を散歩」が時には「イバラの道を蹴散らかし」みたいな様相になることもたびたびありました。拓郎の恋愛観・結婚観・性愛観は時代の変化とともにあり、団塊以降の世代が抱えてきた悩ましさを表すある種のサンプルになっているように思います。
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あければ勝ち誇った 女の素顔
  「わけわからず」(1978)
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男性の育児休業取得を促進するために提案された改正育児・介護休業法などが令和3年6月3日、衆議院本会議で可決され、成立しました。令和3年のドラマ「リコカツ」は地味ながら支持を得ています。
「結婚しようよ」から50年、令和の時代となった今、「男女共同参画社会」の実現はそこそこ果たされたのか、まだまだ道半ばなのか・・・

2021年5月31日月曜日

「青春の詩」吉田拓郎の正直 ~デビューでいきなり●●●【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.0】

いきなり”SEX”

「青春の詩」(1970)は吉田拓郎のファーストアルバムであり、アルバムからのシングルカット曲で、アルバムの1曲目に位置しています。


本人作詞のこの曲、のっけから長い(6分19秒)。一連は三行からなり、十九の連の最後の行がどれも

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ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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となっています。

フォークソングにしびれてしまって
反戦歌を歌うこと
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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の次の連で

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SEXを知り始めて大人になったと
大喜びする事
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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と、お書きになりなさる。こんな2連を並列するところが、なんとも拓郎らしい。SEXというワードをそのまま直球で歌詞に投げ込んでシングルカットまでしてしまうというどストレートな態度は、「1970年の世間」であればキワモノ扱いに近かったのではないでしょうか。当時のお堅い世相的にはかなり型破り・掟破りだったのではないかと思います。あまり正面切って性的な話をメディアで口にするのは憚られていた時代です。加藤茶の「タブー」も、「エマニエル夫人」もまだ浮上してきてはいません。その上、SEXについてのみならず、その直後の連でも、
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親に隠れて酒煙草睡眠薬
果ては接着剤シンナー
ああ、それも青春
  「青春の詩」(1970)
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とおっしゃる。この1970年代当初に色とりどりの19連をよくまあ並列してみたよなと思ってしまいます。
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僕たちは大人より時間が多い
大人よりたくさんの時間を持っている
大人があと30年生きるなら、
僕たちはあと50年生きるだろう
  「青春の詩」(1970)
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と、大人を挑発するようなことも言っています。真面目な中学生であった私はこれちょっと不謹慎じゃないのかと思いました。当時から50年以上が経ちましたが、もし50年を待たずに拓郎が亡くなっていたら、「そんなこと言ってるからだよ」と言われるんじゃないかと心配していました。よかったね、拓郎。
ついでに「老人の詩」(1971)という替え歌も作っていて、敬老派の私としては、罰が当たるのではないかとドキドキしていました。
吉田拓郎の魅力は、こうした直線的な言動なのでしょう。普通は言わないことを言ってしまう、やってしまう。言いたいことを言って、歌いたい歌を今歌ってしまうのが拓郎です。フツーの人は普通のことだけ口にして普通に過ごす。本音なんてなかなか言いません。波風を立てるのを面倒くさがるものです。
タブーや掟を正面突破すれば過剰なレスポンスを受けることになります。

暴風の中、船が進むがごとくであった拓郎の1970年代、どれだけたいへんな状況であっても突き進んでしまう性向が半端ない。
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人生と言う船が進むよ
海が荒れても風が病んでも 帆を張って
  「帰らざる日々」(1980)
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「青春の詩」の結びでこのように語ります。オチャラケながらも、最後にはこうたたみかけます。
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この貴重なひと時を僕たちは
何かをしないではいられない
この貴重なひと時を僕たちは
青春と呼んでもいいだろう
青春は二度とは帰ってこない
  「青春の詩」(19
70)
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何かをしないではいられない衝動性。何が拓郎を衝き動かしていたのか。おそらく拓郎の先天的な要素によるところも大きいと思います。これについてはまた他の稿で書いてみたいです。

時代を映しだす鏡

下の歌詞も衝動的ですw
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とても素敵だ君 暗闇を探そう
でなきゃ 安いベッドで
そして キスして遊ぼう
それから あれも
  「からっ風のブルース」(1973)
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これもまたアルバム「伽草子」(1973)の1曲目です。作詞は岡本おさみさんではあるものの、これを1曲目に採用してしまうアグレッシブな拓郎。世間一般の「恋愛観・結婚観・性愛観」と矢面に立って対峙する羽目に。ある意味、1970年代は日本の性革命が進んだ時代で会ったと思います。アンダーグラウンドの存在であった「性」を表舞台へと浮上させるのに、図らずもかなりの貢献?をしてしまったのではなかろうかと。
このアルバムの前後も拓郎の周囲には大きな渦がひしめいていて、まさに渦中、火中の人でした。
「伽草子」前後の話については、
でも書いてみましたのでご参照ください。伽草子の後に訪れる離婚~再婚への流れはさらに混沌としています。
「青春の詩」に始まる(実際は「イメージの詩」がプロデビュー曲)長い音楽活動と実生活の中で、拓郎は恋愛に、結婚(婚姻)に、性愛に、どストレートを投げ続けることになります。ある意味、拓郎は時代を映しだす鏡の様な役割を担っていたのかもしれません。
1970年は奇しくも見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転した年でもあります。都市化が進み、性の解放が進み、女性解放運動も進みました。ウーマンリブとか、かなり過激な運動もありました。「歌は世につれ世は歌につれ」といいます。拓郎が残した楽曲群とその足跡は、団塊世代がイニシアティブを握った1970年~1990年あたりの民衆の恋愛観を知る上で、文化人類学的にも研究に値するのではないかと思います。知らんけど。
中高生として1970年代後半のオールナイトニッポンを聴いていて、本当にこの人、好きな事(そしてエロい事)言うなあと、半ば感心し、半ば呆れていました。
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蹴飛ばしちまえ 吹き飛ばしちまえ
人が勝手に作った レールをはみ出せ
気ままに歩け
  「王様たちのハイキング」(1982)
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良い意味でも悪い意味でも、何かとやらかし気味でしたね。「やらかす人・吉田拓郎」の異名を今、私が付けました(笑)。

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違うかww
いやあ、本当に拓郎さんのおかげで私も色々とやらかしちまったです。
1970年代の拓郎はまさに神がかり的な活躍をしたため、言動への反動を受け止めるのが大変だったろうと思います。あまりにやらかし、あまりに波風が立ち過ぎて1970年代末にはさすがに本当に疲れ果ててしまったのでしょう。拓郎は
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もしも、僕が間違っていても
正直だった哀しさがあるから
  「流星」(1979)
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と、歌っています。「青春の詩」から約10年で哀しくなり始め、約50年後の2019年に最後のLIVEでセミリタイアとなります。本当にお疲れさまでした。
東京を中心とする若者文化の渦中にいた拓郎が「恋愛・結婚・性愛」といった若者のメインテーマをどのように眺め、どのように行動したのかをささやかながらも記してゆきたいと考えています。特に、性愛方面に関してはなかなか語られることもないかと思いますので、私も掟破りで書いちゃおうかと考えています。
PS.
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ジュリー、ショーケン、きんちゃーん
・・・・
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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も、茶目っ気ありますね。既にこの3人が誰の事なのかも、若い世代には分からなくなってしまっていることでしょう。


ジュリーとは数回の対談を手いますし、拓郎が欽ちゃんバンドに出演したこともあります。ショーケンには「美わしのかんばせ」を提供しかけてポシャッたことがあるぐらいが接点でしょうか。ショーケンもジュリーも「やらかす人」でした(警察沙汰複数回)。警察沙汰はやめて欲しいですが「やらかす人」、大好きです。

吉田拓郎「ハネムーンへ」~結婚なんて【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.3】

どうしてレゲエなんだろう

アルバム「シャングリラ」(1980)で「いつか夜の雨が」「ハネムーンへ」(1980)は、1980年あたりで拓郎が傾倒していたボブマリーの影響があったようで、レゲエのリズムが取り入れられています。ラジオでもボブマリーを敬愛しているという話をよくしていたと記憶しています。ボブマリーと言えばかなり社会派のイメージですが、どちらの曲にもボブマリー的な熱量を感じられないのが不思議と言えば不思議です。

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「ハネムーンへ」の歌詞を考えると、ささいな「日本の婚姻」について歌った曲を何故にレゲエのリズムに乗っけてみたのか、約40年間、ずっと不明なままです。同時に、それならレゲエ以外にどんなアレンジが合っているのかも不明なままです。

拓郎の作品の中ではかなり「非・有名曲」をこんな「非・有名サイト」で取り上げてみるのは自分でもどうかと思うのですが、何かが引っかかっているので書いてみます。
それはさておき、この曲は視点がとても第三者的に思えます。拓郎本人の作詞ながら、美代ちゃんやオケイさんのことを歌っているわけではなさそうです。「自分の結婚」を描いたと思われる「結婚しようよ」(1971)とは違って、「誰かの結婚式」に招待されて、思ったことを詩に書き留めたようです。「気分は未亡人」(1984)や「今は恋とは言わない」(2008)も、直接婚姻に言及している作品ですね。(「こっちを向いてくれ」(1972)も結婚に踏み切れない男の話?)

シビアだぁ

誰かに招待された結婚式で心に浮かんだことを書いたのであれば、かなりシビアな内容です。「結婚なんてララーラーララララーラー」とか歌いながらシビアな視線を新郎新婦に向けている感じです。(「結婚しようよ」から10年足らず)
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重たい日々が始まっちまったよ
  「ハネムーンへ」(1980)
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って、おいおい、美代ちゃんの事ではないにしても、拓郎殿、あなたまだ当時は1977年の再婚から3年目だったでしょうに。そう言えば「君をこんなに抱きしめても」でも、すでに
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まだ軽くなれない君と
もう重さになっている僕だから
  「君をこんなに抱きしめても」(1973)
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と、辛辣です。1度目の結婚から2年後です。けっこう拓郎は女性に対して「重いなあ」と感じていたのでしょう。
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ベッドの横に ゆうべの女
目を覚ませよ お前との愛は
午前3時に もう終わってるのさ
  「すいーと るーむ ばらっど」(1983)
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うーん、「ゆうべ~午前3時」って?ゆうべのいつから愛は始まっていたのか?「お前」って誰?そもそも、そこに「愛」はあったのでしょうか。


「熱しやすく冷めやすいのは男か女か?」という議論はあるあるです。拓郎に関しては、「かなり冷めやすい男」なのだろうなと、思ってしまいます。

話を「ハネムーンへ」に戻します。
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拍手を送る友人たちは
ただひたすらに祝いの言葉
  「ハネムーンへ」(1980)
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冷めてますねえ。そんなにいい事ばっかじゃないよと言いたげです(笑)。知り合いの結婚式に呼ばれて、お愛想笑いをしながらも冷めたことを考えている拓郎の「図」が浮かびます。

この結婚に対する辛辣さは1985年あたりまでずっと続きます。森下愛子との結婚後はというと・・・「たえなる時に」(1991)などではどちらかというと肯定的です。一方で、2008年の「今は恋とは言わない」で辛辣な描写が再浮上します。あちらこちらへと気持ちは振れているようです。
拓郎が恋愛や結婚について歌ってきたことは、ちょうど時代の恋愛観や結婚観、性愛観を映し出しているようで、興味深いです。昭和時代後期から平成時代の世相を映し出しているように思えます。
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形式だけの指輪を贈り
  「ハネムーンへ」(1980)
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辛辣すぎますww

もしかして、あの夫妻のハネムーンで

1980年代はバブルに向かって、「婚約指輪は給料の3倍」とかもう宝飾業界の陰謀としか思えないような豪華絢爛な結婚式がトレンディ―wになってゆくのです。私も、何だか指輪って好きじゃないなあと思っています。気が合いますね、拓郎殿。ハネムーンは海外へ行くのが当たり前のようになってゆくのもこの頃だったのではないでしょうか。あの松任谷夫婦でさえ、ハネムーン(1976)は熱海のユーミンの親戚の旅館だったそうです。
ちなみに、拓郎とかまやつさんはこの2人の熱海へのハネムーンについていったそうです。新婚初夜を4人で朝までどんちゃん騒ぎしたという嘘のような話も残されています。それで、新婚初夜をからかったのだとしたら・・・
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新婚初夜をからかう儀式
男と女に生まれてきたんだもの
寄り道したことぐらい許されてもいいさ
  「ハネムーンへ」(1980)
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という一節は、この松任谷夫妻の新婚旅行でどんちゃん騒ぎしている時にも発していたかもしれません。・・・などと考えてみると恐ろしくなってきました。酒を飲んだ拓郎がこの類の言葉を言ってしまったのではと想像してしまいます。「やらかす人・吉田拓郎」ですから。新婚旅行についていくだけでも、かなりやらかしているに、その上「寄り道」などと勢いで怖い言葉を言ってしまったのかも?!ユーミンはからかわれて笑いながらも、心中穏やかではなかったのでは?(注:以上は筆者の妄想です)
この詩が松任谷夫妻の話ではないにしても、「ハネムーンへ」に描かれる2人の間には、婚前交渉がなかったかのような書きぶりです。初夜に「寄り道」が発覚したわけですから。当時高校2年生だった私は、この部分について微妙な受け止めをしました。

バージンの価値とフラットな男女関係

当時の愛読書wだった「映画の友」という日活映画を紹介するエロ本では、インタビューで「18歳で処女喪失」とか言うポルノ女優に対して「それは遅いねえ」とインタビュアーが返すのが定型パターンでした(笑)。婚前交渉もせず、結婚をしてしまうカップルがどれくらいいるんだろうと妄想してしまう高校生の私。同時に、ハネムーンで相手がバージンでないことが発覚するのって、どういう空気なんだろうかとwww
ちょうどこの年、高校の保健の授業で若い体育の女教師が「結婚するまでは処女でいるべきだ」という自説を熱弁していました。「うーん、この先生は未婚なので、処女なのか」というふうに高校生として当然の推測が成り立ちました。そしてー、「すでに同級生に処女じゃないと目されている子たちがいるよなあ」と、その同級生たちがこの先生の熱弁に対してどう思っているのだろうという複雑な疑問も沸き起こり・・・。
この1980年代の始まりを告げるアルバムの1曲「ハネムーンへ」が示す「婚前交渉に関する論考」は、軽チャー(カルチャー)が進攻した1980年代を通して、限りなく無効となり、「婚前交渉」や「婚前旅行」という少し後ろめたい気分を含んだ言葉はほぼ絶滅状態となりました。
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寄り道したことぐらい許されてもいいさ
  「ハネムーンへ」(1980)
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婚姻時を含め、初めて男女が結ばれる時に「女性がバージンではない案件」に関して、男性がそれを非難するのは今やかなり古い価値観です。男が童貞でないことについてはたいてい不問にするのに、平等ではないですね。当時は「(婚前に)処女を喪失していますが、それの何が許されないわけ?」という空気に変わりつつあったのではないかと考えます(高校生だったので知らんけど)。
おそらくこの詩の「許されてもいいさ」は、どちらかというと「女性が結婚時にバージンではない案件」について拓郎は寛容さを示したのだと思います。拓郎はこの案件に対して寛容であったつもりなのでしょう。
「男女のフラット問題」に関して、拓郎はその後、
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あなたが風なら私もそうしておかしくないわね
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女ですもの男みたいにはいかないけれど
誘惑されたらついていきますよ どこかのドンファンに
  「気分は未亡人」(1984)
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とさらに女性の立場に寄った作品を世に出しています。さらにフラットになりつつあります。
「結婚しようよ」(1972)で
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僕の髪が肩まで伸びて 君の髪と同じになったら
約束通り 街の教会で 結婚しようよ
  「結婚しようよ」(1972)
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と歌ったのは、1970年代の「男女のフラット」を象徴していたと思います。男性(の髪の長さ)が女性へ近づくわけですからねー。ところが、1980年は「女の時代」と言われ、女性の(性的な)解放のスピードは、拓郎が寛容になるスピードを超えていたのでしょう。団塊世代の中では先進的なフラット思考であったとしても、新人類世代の私には拓郎が古い価値観を背負っているのは否めないように思えました。

拓郎の男女観と世の中の男女観

昭和は価値観が激変しており、5年周期ぐらいで「団塊世代以降の婚姻に関する様相」は変わっていったように思います。図らずも拓郎は女性の解放のスピードに「ついていこうとしたけれどついていけなかった団塊世代の一側面」を体現したのかもしれません。拓郎の作品の中には女性に対して先進的にフラットである時もあり、昭和的な男尊女卑が見え隠れるす時もあります。2020年あたりのラジオでは、夫婦間での男女関係の逆転についても幾度か語っていました。私にとって、拓郎が女性との恋愛・性愛にどう対峙してきたのかという点はとても興味深いです。「男は~、女は~」という論争で決めつけをすることは、令和3年の現在では避けられるようになっている気がします。晩婚化や生涯お一人様率も確実に高まってゆき、離婚件数も高止まりしています。草食男子も普通である状況です。

そして婚姻もまた、「家族をどう捉えるのか」という拓郎がずっと抱えてきたテーマです。「家族」のことまで触れ始めると話がどんどん長大になっていくので、このへんで止めておきます。
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今や結婚前に同棲することや妊娠することは普通になってしまいました。また結婚式直後に必ずハネムーンに出なければならないわけでもないそうです。これについては1970年代の「同棲時代」時代と何が同じで何が違うのか、よくわかりません。多分、1970年代に都市部で起きていた現象が、全国的に広がったのではないかな。どうなんだろう。
最後に、Bob Marley - No Woman, No Cry ↓↓↓



2020年12月29日火曜日

吉田拓郎「風の街」~東京に吹く風




白い仔犬を 抱きあげる
君はちょっぴり 幼く見える

作詞が喜多条さんであっても、この「君」は100%美代ちゃん(浅田美代子=その後の2番目の拓郎の妻)のイメージですね。

って、当時の原宿でアイドルが白い子犬を抱き上げるようなシチュエーションが有り得たのかはどうか知らんけど、若かりし日の美代ちゃんのその姿を考えると、マジキュートww
その後、美代ちゃんが殺処分反対のムーブメントを起こすことと、関係があったりして。美代ちゃんの殺処分反対のHPはこちら↓↓↓。上の写真の犬は、白くもないし、小さくもないですね(笑)。
https://www.tierlove.jp/
特に美代ちゃんのファンではないし、拓郎との事(不倫?→結婚→離婚)は残念な事故だったんだろうと、さして興味もなく、スルーしてきました。けれど、最近になって見方が変わってきました。拓郎も、美代ちゃんも、時代の渦に巻き込まれながらも、それはそれで貴重な時間を過ごしていたのだろうと。そして謎の多い美代ちゃんが、今更ながらになんだか好きです。
この時に吹いていた風は、深く深く、四角佳子さんとの離別と浅田美代子さんとの出会いが関係していると思います。

ちなみに、下↓↓↓の動画はYOUTUBEから引っ張ってきただけであり、誰かさんがNHKアナウンサーの桑子さんをイメージして作ったようです。





道のむこうで 手を振った
大きな声で サヨナラ言った
あいつを ふと思い出す
今も元気で いるだろか

この曲の冒頭4行の係り結びがどうなっているのか、よく考えたことはありませんでした。手を振ってサヨナラ言ったのはずっと「君=美代ちゃん」と思っていました。手を振ったのは「君」であり、それを見て「あいつ」を思い出したのかなと。 でも、考えてみると、「あいつ」は「道の向こうで手を振って、大きな声でさよなら」を言ったきり、会えていない「なつかしすぎる友達」の可能性もあるかなと、今頃考えるようになりました。もう40年以上経っているのに。遅いわ。そう言えば、「あいつ」の性別は男か、女か、どっちだ?「あいつ」という呼び方からすると男性のようにも思えるのだけれど、今の「君」を見てあいつを思い出しているなら女性なのかもしれない。40年経ってもわからぬわ。

去った「あいつ」の話から切れ目なくサビに入って白い子犬を抱き上げる「君」の話が展開しているので、思考が混乱します。「あいつ」のことをぼんやりと思い出しているそばで、美代ちゃんが子犬を抱き上げたんだろうか。 整理します。
① 「あいつ」が道の向こうで手をふってサヨナラを言っていた事を思い出していると、「君」が子犬を抱き上げた。
② 「君」が道の向こうで手をふってサヨナラを言っているのを見て、「あいつ」を思い出した。そして、「君」が(道の向こうで)犬を抱き上げた どっちなんだ?
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過去形の「あいつ」と現在形の「君」が混在しているのは、時間の移り変わりの速さを表しているのでしょう。いつのまにか、風は時間を運んで行ってしまい、今また新しい女(美代ちゃん)を追い求めている自分(≒拓郎:あくまで作詞は喜多条さん)。 この曲は1976年、四角佳子さんとの離婚後に発表されたアルバム「明日に向かって走れ」の中の1曲。1976年の原宿がどんな様子だったか分からないのだけれど、自分がそこにいるような気分になってしまいます。
「人に言えない悲しみ」には、四角佳子(前妻)さんと彩タン(娘)のことも含まれるのかな。それすら運び去っていく風に無情・無常を感じているからこそ、メロディーには哀愁が漂っているのだと思います。自分の意志や意図が追い付かず、目まぐるしく動く東京での生活。変貌するTOKIO。

幼く見えた「美代ちゃん」にすら、どきりとさせられるような大人の女の片鱗を見せられる拓郎。いやー、薫る新風にイチコロですww

東京に吹く風。

風は運び去り、運び込む。



「風の街」

道のむこうで 手を振った
大きな声で サヨナラ言った
あいつを ふと思い出す
今も元気で いるだろか
白い仔犬を 抱きあげる
君はちょっぴり 幼く見える
表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や人に言えない 悲しみすら
風が運んで しまう街

空に昇って 消えてゆく
子供の赤い 風船一つ
遠い昔の 思い出が
空にポツンと 消えてゆく
僕の名前を 呼ぶ時の
君はちょっぴり 大人に見える
表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や人に言えない 悲しみすら
風が運んで しまう街

作詞:喜多条忠 作曲:吉田拓郎 


2009年の全国ツアーでは、インストゥルメンタルで演奏されました。その様子はアルバム「18時開演」に収められています。ビッグバンドでストリングスを交えて悠々とメロディーが流れ、いつまでも続いて欲しい気分になります。拓郎作品の中でも珠玉の名曲のひとつです。

今もなお東京上空には風が吹いているだろう。一人、空を見上げてみると・・・。



2020年12月27日日曜日

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」って、誰のこと?~「風になりたい」の「私」は誰でしょう【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.6】

誰がアホやねん

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」は、引退の噂が広がっていた1985年の発売。アルバムのタイトル曲です。アルバムで愛した女を「馬鹿」呼ばわりするなんてモラハラと言われかねませんね。

関西では、「アホ」は愛されるべき存在で、褒め言葉の一つです(ホンマか?)。また、女子に「もー、バッカねー」なんて言われるのはちょっと愛情を感じて嬉しかったりしませんか?

この曲の「馬鹿」にも、いくらかの愛情は含まれているような気がします。


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さて、けっこう重い、本論です↓↓↓。


「馬鹿」は誰でしょう

「死んでください」と女性に言われる状況がどういうものか、当時はよくわからなくて、あまり考える気にもなれなくて、この曲について考えることを放置していました。初めてこの曲を聞いた時には、「どーせ森下愛子とよろしくやってんだろー」って感じで、痴話げんかレベルだと考えていました。あるいは、当時の拓郎は引退をほのめかしていたし、ジャケット写真がエレキギターなので「あいつ」は人ではなく、「音楽」ではないかなどと邪推していました。舞姫(1978)にもこのモチーフは使われています。歌詞は松本隆です。

「死にましょう」 ため息まじりの冗談に 「死ねないよ」 年月だけがあとずさる

「死にましょう」 女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」 淋しさだけが押し黙る

今もなお、吉田拓郎に死を迫る「馬鹿」が誰なのかはきちんとは分かっていません。しかし、最近になって、「馬鹿」は森下愛子ではなく、浅田美代子なのかもしれないと思うようになってきました。


「俺が愛した馬鹿」の前年「フォーエバーヤング」(1984)の「君が先に背中を向けてくれないか」では、

君の人生に また陽が登り
明るい笑顔が 戻る日はすぐ来るさ
だから泣かないで 僕を見つめないで

が先に背中を 向けてくれないか

と懇願する拓郎。「君」はおそらく当時の浅田美代子夫人。「俺が愛した馬鹿」でも「背中を向ける」というフレーズが出てきています。

とうとう俺は あいつに 背中を向けた
お前の様な馬鹿は 勝手にすればいい

「君」と「あいつ」が同一人物だとしたら「俺が愛した馬鹿」は美代ちゃんとの事を歌っていることになるのかな・・・と考えています。

「君が先に背中を向けて」欲しかったのだけれど、背中を向けたのは、俺。じゃあ「馬鹿」は美代ちゃんになるのか?美代ちゃんが「死んでください」とか、そんなに重い事を言うかなー?「フォーエバーヤング」(1984)には美代ちゃんとの離別が色濃く漂っており、それが「俺が愛した馬鹿」(1985)へと続いていても不思議ではないです。

「おれが愛した馬鹿」を初めて聞いた時には「森下愛子だー、死んで下さいと迫ってきた―、コワー!」と思っていたのだけれど、どうなんだろう???????

いや、オケイさんの可能性もあるか??・・・ないか。

時間に身を まかすぐらいだったら
行きずりの男に 抱かれた方がいい
褐色の瞳は いつも燃えていた
何かを必死になって 求め続けてる

この一節にも混乱。行きずりの男に抱かれたいほど性欲が強い馬鹿なのか。そんなに性欲を燃やしているのか?そもそも、「時間に身を まかすぐらいだったら行きずりの男に 抱かれた方がいい」と言っているのは「馬鹿」(=あいつ≒美代ちゃん?)なのか「作詞者」(=拓郎)なのか??

歌詞全編に謎のフレーズが埋め込まれていて、「馬鹿」が誰なのかを考えなければ到底読み解くことができません。

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愛されたいから震えている「私」は誰でしょう

この「俺が愛した馬鹿」の謎は同アルバムのラストに置かれている「風になりたい」の謎にも通じます。「風になりたい」を新レーベル「フォーライフ」の新人川村ゆう子に提供したのは1976年であり、四角佳子さんとの離別前後に作られた曲であると考えられます。おそらく当時は、次の妻となる浅田美代子との付き合いがあった期間であると考えられます。そうすると「私を離した時の隙間風」の「私」が美代子さんということになります。

1976年、街中を濡らした長い雨の後に「もうすぐ朝です、少し寒い」というシーンは妄想なのか、実話なのか。2人(拓郎と美代子?)の躊躇・戸惑いが「愛されたいから震えていました」「抱きしめられてもあなたをつかめない」「追いかけたくても一人で残ります」に表れているのか?夜明けに男女の話が傘をさして歩いているって相当シュール。男性が既婚者の拓郎であるとすると、さらに情景の緊張感が増します。追いかけたいのだけれど、倫理的にいけないことは十分に分かっていて、逡巡してしまう2人。


アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)が「風になりたい」で閉じられている意図を考えずにはいられません。拓郎は美代ちゃん(馬鹿)との決別をこのアルバムのラストに記し、捧げたのではないかと。(当時、森下愛子とはうまく行っていなくて、一旦、別れたのかもしれないという考え方も可能かもしれませんが・・・)

美代ちゃんとの離婚は、なぜかテレビメディアで会見をして淡々と長々と語られました。当時の芸能界のしきたりにハマっていて、拓郎らしくないなと。「酷な発言」もあり、引退状態だった美代ちゃんにとっては反論や訂正を述べる機会がなく、アンフェアではないかと感じました。(オケイさんとの時にはラジオで直接リスナーに語るという形をとっています)

アルバム「おれが愛した馬鹿」(1985)は離婚から1年を経て、拓郎の心の底にあった美代ちゃんへの悔恨の想いを反映しているような気がしています。当時の私は、「作曲能力が衰えたので昔の名曲を引っ張り出してきた」のではないかと単純に考えていました。しかし、打ち込みサウンドが無機質に鳴り響きながら終わる「風になりたい」を改めて聴くと、「引退(拓郎はこの時期、直後のつま恋コンサートでの引退をほのめかしている)」を含めた当時の拓郎の気分の重さが見えてくるような気がします。


2度目の隙間風

1976年に吹いていた美代ちゃんとの隙間風は結局のところ結婚という選択をしたことによって埋められます。「私」(美代子)は逡巡しながらも、「私も今すぐ風」となり拓郎を追うことになります。

しかし「気分は未亡人」(1984)の中で、「私」(たぶん美代子)は、「あなたが風なら私もそうしておかしくないわね」と、開き直ります。「あなたは古い」ともう拓郎を追いかけようとははしません。「気分は未亡人」のドライで突き放したような歌詞と曲調・アレンジには2人のパサパサした関係を感じさせられます。隙間風が再び吹いて拓郎は美代ちゃんの元を「通り過ぎ」て戻ってこないことになってしまいます。2人は再び吹く風に舞い、別々の方向へ流れていきます。

2つの「風になりたい」を比べ、その間の拓郎と美代ちゃんのことを考えると、せつな過ぎて・・・

それにしても、「長い雨の後」というフレーズは、

「僕のそばに妻がすわる 傷ついた心開き 長い雨はもうすぐ終わる僕たちは肩を寄せる」(長い雨の後に:1973)に使われています。このモロオケイさん(妻)とのモチーフを美代子に使うのはなんだか失礼な気がします。


じゃあ、「風になりたい」の「私」がオケイさんなのかと言われると、それはー、、、違うのかなぁ。子供もいるのに「もうすぐ朝」つまり暗いうちにおけいさんと街をさまよったというのは何だか、変だなあ。「私」がおけいさんだったらそうとう暗い演歌的なシチュエーションになりますねえ。オケイさんの事を書いた曲(1976)とすると、それをわざわざ「俺が愛した馬鹿」(1984)のラストに持ってくるのは変だなあ。

もしかすると「つかめないあなた(拓郎)」に「戸惑うオケイさん・美代ちゃん」の両方をモデルにしているしているのかもしれないです。まさかのダブルキャスト。女性にとって男は風のように通り過ぎる存在であると。

「風になりたい」のメロディーは、悲しみを感じると同時に何だか愛が溢れていて、どうも躊躇する美代ちゃん、揺れる美代ちゃんの心情を表している気がします。

美代ちゃんが歌う「風になりたい」を妄想しています。もし、あの不安定な歌唱力でボソボソと美代ちゃんがこの曲を歌ったら、泣いてしまいそうです。

「風になりたい」の「私」が美代ちゃんなのかオケイさんなのか。

「俺が愛した馬鹿」の「あいつ」が美代ちゃんなのか、森下愛子なのか。

それによってはずいぶん違う話になってしまいます。「誰」に何故歌ったのかによってずいぶん意味が違って聴こえてきます。曲の発表からどちらも数十年が経っていますが、私はどちらも美代ちゃんではないかと思うようになりました。

「もしかしたら3人の妻の誰でもないかもしれない」「どこかのオネエチャンとの話?」とか??妄想が止まらない―!

「俺が愛した馬鹿」の歌詞はこちらを参照

「風になりたい」の歌詞はこちらを参照

「気分は未亡人」の歌詞はこちらを参照


2020年12月26日土曜日

吉田拓郎の名曲「シンシア」にツッコンでみた

 吉田拓郎自身歌唱の作品で一番最初に感銘を受けたのが、「シンシア」(1974/ 7/1)でした。今は竜飛崎の方が良いと思うこともあります。どちらも名曲ですよね。

「Live73」(1973)と「人生を語らず」(1974)の間に出されたシングルということになります。まさに、ミュージシャンとしての吉田拓郎の絶頂期ですね。

しかし、ずっと混乱しています。

①「君の部屋のカーテンやカーペットは色褪せてはいないかい」

って、余計なお世話な気がします(まあ、多分、「君は色褪せないでね」という意味なのかな)。

②「君の部屋に僕一人いてもいいかい」

って、シンシア(≒南沙織?)にとってはストーカーだし、奥さん(おけいさん)にとっては浮気でしかないww

③「人ごみにかくれて肩をすぼめて自分を見つめたとき 過ぎ去った夢が崩れ落ちる 長い旅が終わる」

ここ、大好きな割に、よくわかんないです。「旅」は多分「心の旅」(笑)でもあるのだろうけど、20代で夢が崩れて旅が終わるのはえらい儚いなあと。

④リアルシンシア(=南沙織)あるいは(詞の上での)妄想シンシアって、拓郎や(詞の上での)主人公とどういう関係なんだろう?

⑤「君の腕で眠りたい」

とあるけど、それは実現可能な願いなのか、それとも妄想に近い願望なのか?
それとも既に眠ってみたことあるんか?

⑥「君の腕で眠りたい」

「人生を語らず」(1974)には当時の妻、四角佳子さんとの確執を感じられる曲がおさめられており、翌年には離婚という結果になっています。オケイさんは、いったいどんな気分でこの曲を聞いたのでしょうか・・・。

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うー、45年来の疑問と妄想が暴走しています。

 何もかも愛ゆえの事だったと言ってくれ(永遠の嘘をついてくれ:1995)

それにしても、メロディーもアレンジも歌唱も、秀逸ですね。
------------- かまやつ:シンシア、帰る場所も かまやつ:シンシア、ないのなら 吉田:シンシア、君の腕で 吉田:シンシア、眠りたい ------------- という、終盤の拓郎のカットインプレーも素敵です。何度聞いても、やや甘ったるいかまやつさんボイスに、ちょっとコワイ拓郎ボイスが割り込んでくるところでぐっと全体がしまってカッコイイです。 同時に、シンシアの腕の中で眠るのは、「俺だーーーっ!」と言わんばかりの当時の拓郎の勢いが可笑しくって、可笑しくって。 「ここは俺に歌わせろ」って感じだったのでしょうかw


2020年10月25日日曜日

吉田拓郎「あゝ青春」の八つ目は何を意味しているのか

 拓郎の歌詞は、わからんままでムードで聴いていることも多いのですが、時々引っかかって、こだわりたくなってきます。

「ああ青春」の ------------------------- いつつ 生きてる 後味悪さ 胸にかみしめれば 泣ける海 やっつ やめるさ 抱き合っても 心は遠ざかる 安い宿 ------------------------- って、何の事か?何をやめるつもりなのか?? もう、何度聞いたかわからぬこの曲、この歌詞。 ①「やめる」が直後の「抱き合う」ことをやめる?
なんで抱き合うのをやめるのか?歌詞全体を見ても女性との決別を歌っているようにも思えないのだけれど。
②前段の「生きていることを後味悪く感じること」「泣くこと」をやめる?
振り返っていても、仕方ない。生きていくしかない。「青春は苦しくても息切れ手も進むしかない」につながるのか。
③女性と安い宿にしけこんでSEXをすることをやめるのか?つまり「安い宿でのSEX」をやめる。
明日からはちゃんとシティーホテルで?
④「君をこんなに抱きしめても」の世界観?
ごちゃごや言葉を並べるという「野暮なことをよそう」と言っているのか。
この曲全体に漂う「青春の彷徨」を断ち切って、「夢破れ悲しむ」ことをやめるのか。
「一つ一人じゃ寂しすぎる 2人じゃ息さえもつまる部屋 三つ見果てぬ夢に破れ 酔いつぶれ夜風と踊る街 悲しみばかり数えて 今日も過ぎてゆく」が1番の歌詞。思い悩み、さまよい、立ち止まることから抜け出そうという意味での「やめる」なんでしょうか。
「やめること」自体が大切である、という思想を表しているのか。
スティーブジョブズの名言「何をしないかを決めることは、何をするのかを決めるのと同じくらい大事なことだ」のような話?1人は寂しく2人はしんどい。夢に破れた今の自分を捨てて(やめて)また夢を見る?




⑥どうしようもない孤独を抱きしめ「ひとり立つ」しかない青春のヒリヒリした痛みとその向こうへゆくエネルギーをこの曲から受け取ってきました。松本隆さん、解説してくんないかな。

⑦けっこう数え歌の数合わせでテキトーだったりして。
・・・書いているうちに結局わからなくなっている、そんな私です。

2020年10月3日土曜日

吉田拓郎「望みを捨てろ」の謎を追いかける【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.5】


狂気の1973年


名盤「LIVE73」においてラストを飾る「望みを捨てろ」は当時の吉田拓郎の複雑な立場を表している不思議な曲です。作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎。

1970年代、拓郎はとんでもない乱気流の中を突き進んでいました。「LIVE73」前後の拓郎の動きも実に目まぐるしいのです。1973年の出来事を簡単に記すと・・・

1月 新六文銭結成

5月23日  金沢事件(4/18の新六文銭ライブの後)により逮捕→ 逮捕によって新六文銭は事実上の解散

6月1日  アルバム「伽草子」発売

6月2日  不起訴となり釈放

6月3日  神田共立講堂のコンサート

       (「LIVE73」のMCで「魔の神田共立講堂」と拓郎が語る)

11月26日 中野サンプラザ1日目

11月27日 中野サンプラザ2日目

12月21日 「LIVE73」発売

12月には四角佳子との間に第一子「彩タン」(長女)誕生。拓郎にとって唯一の実子となる。

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翌1974年には森進一に提供した「襟裳岬」がレコード大賞受賞、翌1975年にはフォーライフ設立とつま恋でのオールナイト野外コンサート。挙句に四角佳子と離婚。1977年には浅田美代子と結婚し、1983年に離婚。1986年には森下愛子と結婚して、現在に至ります。

「LIVE73」は当時のロックコンサートとしてのクオリティの高さで群を抜くミキシングで日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムだったわけで、「望みを捨てろ」がアルバムでは歌唱中にフェイドアウトする形でアルバムは終わっています。このアルバムにはカセットテープ版があり、完全版ロングバージョンが入っています。

レコードバージョンは、拓郎の歌唱途中でフェードアウトしていたので、カセットバージョンの存在を知るまでの間、「人間なんて」みたいに延々と1時間ぐらい「のぞみをすてろ~~~~」と、歌い続けていたのかなと勝手に妄想していました(笑)。


中野サンプラザ公演は2夜連続


「LIVE73」は2日間の中野サンプラザ公演からのチョイス。1日目と2日目は拓郎の強い意向により、大きくアレンジの変更があったそうです。アレンジャーの瀬尾一三ともかなりの衝突があったそうですし、バントだってそれはたいへんな事だったでしょう。今はもちろん、当時でも考えられないですね。

「望みを捨てろ」も1日目と2日目とも、エンディング、歌い回しは明らかに違うし、エンディング前の4番までの歌詞部分の歌い回しも違います。アルバムに入っていない方の貴重な音源も残っていて、アルバムにチョイスされたのがどちらなのかは、今のところ不明です。チョイスされなかった音源は、別モノみたいに違います。比較的ラフな感じで、歌われています。


アルバムにチョイスされている「望みを捨てろ」のバージョンには狂気を感じさせられます。カオスを予告するようなゆったりとしたーホーンから始まり、最後は拓郎の絶叫でフェードアウト。拓郎自身がライナ―ノーツで「狂気の1973年」と表現しています。まさに怒涛オブ怒涛。なので、チョイスされたのは1973年をしめくくる「2日目(11/27)」なのかなと勝手に思っていたのですが今のところ真相は分かりません。

http://mushi646.blog.fc2.com/blog-entry-528.html#more

によると、ボーカルは後から差し替えられたようです。それが、後の「『望みを捨てろ』だけはまずかった」という発言の原因かもしれないと。自分としてはボーカルを後から差し替えたことに、特に異議はないけれどなあ。中野サンプラザを押さえて前後のコンサートのバンドとは違う特別編成のバンドでリハーサルを1か月ぐらいかけてやって、保険として事前に差し替え音源も用意できていたそうです。下のリンク先に素晴らしく詳しい記述があります。
http://mushi646.blog.fc2.com/blog-category-31-2.html

作詞:岡本おさみ


あくまで「望みを捨てろ」の作詞は岡本おさみです。ライブのセットリストに加えた曲の歌詞の全てが拓郎の心情を完全に反映しているわけではないでしょう。それでもアルバムのラスト、いや、1973年のライブの(ほぼ)ラストを飾ったこの曲が当時の拓郎にとって深い意味を持つものであったことは間違いないと考えてよいでしょう。


望みを捨てろ (Live)

                作詞:岡本おさみ

                作曲:吉田拓郎

ひとりになれない ひとりだから

ひとりになれない ひとりだから

妻と子だけは 暖めたいから

妻と子だけは 暖めたいから

望みを捨てろ 望みを捨てろ


ひとりになれない ひとりだから

ひとりになれない ひとりだから

我が家だけは 守りたいから

我が家だけは 守りたいから

望みを捨てろ 望みを捨てろ


ふたりになりたい ひとりだから

ふたりになりたい ひとりだから

年とることは さけられぬから

年とることは さけられぬから

望みを捨てろ 望みを捨てろ


望みを捨てろ 望みを捨てろ

望みを捨てろ 望みを捨てろ

最後はいやでも ひとりだから

最後はいやでも ひとりだから

望みを捨てろ 望みを捨てろ


ひとりになりたい ひとりを捨てろ

望みを捨てろ ひとりを捨てろ

ひとりになれない ひとりだから

望みを捨てろ 望みを捨てろ

年とることは さけられぬから


ひとりになりたい ひとりを捨てろ

望みを捨てろ 望みを捨てろ

ふたりになりたい ひとりだから


望みを捨てろ 望みを捨てろ

ひとりを捨てろ ひとりを捨てろ......


鬼気迫るシャウト


私は高校時代にこのアルバムを約5年遅れで聴いています。多感な時期に(笑)、あんなに鬼気迫る感じで「望みを捨てろ」と拓郎に教唆されたので、ついつい、「え?あ?ん?そうなん?」って感じで、大望・私欲を中途半端に捨ててしまい、倒錯した人になってしまいました。

「なんか脳天・全身をヤられたなー」というのが10年ぐらい続きました。

たいていの大人や作家は「望みを捨てるな」「あきらめるな」「希望を持って」と言っているのに、なんでこの人はわざわざアルバムの最後で「捨てろ」と連呼しているのだろう。そして、それが刺さるのだろうか?理屈を超えた不思議感に包まれました。

「妻と子」「我が家」は守るべきで捨ててはならず、だから「望み」「ひとり」を捨てろ。

人は一人ではいられないのだから、一人気ままにフラフラせずに生きろと言う歌詞なのか?いや、大きな野望を持たずに生きろという歌なのか。人生は短く、年を取って老いて行くのだから、自己愛を捨てて他者への愛(利他)に生きろと言っているのか。全共闘世代の政治的敗北に関係していて、権力に関する欲をなくして「個人的な愛に生きろ」と言っているのか。

高校生だった自分には何を言われているのかさっぱりわからず、ただただこの曲の切迫感に感電しているような状態でした。じゃあ、40年近くが過ぎて何かはっきりと見えてきたのかと言われると・・・いや、まだ、見えません。


「望みを捨てろ」だけがまずかった??


ところが、驚いたことに、このアルバム最後を飾るシャウトは数年後、あっさり否定されてしまいます。1977年に拓郎は岡本おさみと対談をしています。その中で、

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拓郎  ところで、二人でいろんな曲を作ったけど『ライブ'73』(拓郎のライブアルバム)が 最大の勝利だったと思うね。メロディも詩も対等で、五分五分の勝負をしているし、とにかくあれはすべての面ですごいLPだったと思うよ。 特に『落陽』なんて最高、俺は今でも何度きいても酔いしれるね。

岡本 あれは本当に短期間で作ったよね。ものの1か月かそこいらだった。

拓郎  詩がパーッとできて、それにワーッとメロディつけてさ。そうやってものの一か月で作った曲ばかりなんだけど、俺はあのLP の中の曲ってすべて気に入っているね。ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ。

岡本  その辺はまったく同感だね。

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と発言しています。これがとても不可解で混乱していました。後述するように1973年当時の妻(四角佳子)とは離婚してしまうし。

拓郎の話を聞いていると、彼独特の逆張り魂があり、本心がどこにあるのか分からなくなることがあります。同じアルバムの中でさえも明暗があり、躁鬱があり、逆のことを言ってみるのが拓郎の特徴です。それが「青春の彷徨」「素直な独白」として共感を呼んだのだろうしと思います。まるでサリンジャーの「ライムギ畑でつかまえて」の主人公ホールデン君(≒サリンジャーの投影)みたいです。

この「ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ」という発言だって既に数十年前の話で、現在の拓郎や岡本おさみ(故人)はこの曲の事をどう思っているのだろう。拓郎の言うことは思い付きで逆張りだから、何か違うことを考えているかもしれません。


この年の本当の最後は1973/12/12 (水)@渋谷公会堂 (東京都)「来年もよろしくコンサート」だったようです。以下の曲を披露しています。

「聖しこの夜」「準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響」「ひらひら」「結婚しようよ(アンコール)」「ダイアナ(??)」

だそうです。これはジョイントコンサートだったので、本気の1973年オーラスは「望みを捨てろ」だったのだろうと考えています。


妻と子だけはあたためたい

1970年代前半は、(記憶を辿れば)ウーマンリブとか言って、女性の地位向上のけっこう激しい運動があったみたいです。1975年にはNHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手の中に女性を泣かせた者がいると中ピ連が粉砕予告を出したそうです。男女の関係が著しく変化していくこの時期、吉田拓郎という当時のアイコンが何を考え、何を(発信)していったのかを掘り下げることはかなり興味深い作業です。団塊の世代の女性観や結婚観が垣間見えてくる気がします。

歌詞の中には、

「妻と子だけはあたためたいから、望みを捨てろ」

と、言っています。

この場合の望みは「別の女」の事なのでしょうか。当時はまだ浅田美代子(1973年2月にドラマ「時間ですよ」でデビュー)の影は感じられません。しかし、拓郎の女好きは相当なものだったと考えられるので、金沢事件を含めて、様々な「つき合い」「アプローチ」はあったことでしょう。天地真理や南沙織にも公然とラブコールをしていましたし。

翌1974年の末に発売されたアルバム「人生を語らず」には、かなり深刻な夫婦の状況が刻まれています(特に「僕の唄はサヨナラだけ」に色濃く映し出されています)。その翌年1975年には愛人(浅田美代子)の方を棄てるのかと思いきや、結果的に捨てたのは妻(四角佳子)と子でした。拓郎は離婚と浅田美代子は関係ないと言い張っていますが、ないことはないと思います。あんなに「妻子だけはあたためたい」と叫んでおきながら、翌年には「借りてきた言葉はどこかに捨てちまいなよ」「疲れたんだよ僕は何となく」(「僕の唄はサヨナラだけ」より)とか言い出すのが腑に落ちませんでした。


拓郎や当時の若者(団塊世代)の貞操観念はどうだったのでしょう。1973年はまだまだ男尊女卑の時代であったし、離婚という選択肢をとることは社会的にかなりハードルが高い事だったと思います。拓郎の、おけいさん、みよちゃん、かよさん、そのほか多くの女性に対する貞操観念も、その時々の事態の変化とともに、どのように変わっていったのかと考えてしまいます。逮捕(5/23)~釈放(6/2)より以前に制作されたと考えられる「伽草子」(6/1発売)には、挑発的と思えるほどに性への「思い」が描かれています。その後に出されたアルバムや拓郎自身の発言にも、性に関する「自由な態度(笑)」が伺えます。

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これについては、いずれ、別の稿で書いた方がいいですね。

詞は岡本おさみさんなので、もしかしたら岡本さんから拓郎さんへの戒めであったのかもしれないと、最近は考えたりしています。戒めを受けた拓郎が、孫悟空のごとく迷い、叫んでいるような気もするのです。

「所帯持ったのだから一人前の家庭人として望みを捨てないとだめかな」

「いやいや、俺は俺だし。自由に(望みは捨てずに)オネエチャン追っかけたいんだよ」

と、自分に向かって「望みを捨てろ」と言い聞かせながらも、「いやそーでもない、納得できない、人として煩悩は捨てれない」と苦悩しているような気がするのです。拓郎本人が確信的に「望みを捨てろ」と歌っているのではなく、岡本おさみの戒めに迷う心の声が、あの絶叫となったのではないかと憶測しています。


LIVE73とLIVE73years

で、「LIVE73」のオーラスが煩悩との戦いに震える拓郎であったとします。するとLIVE73years(2019年:現時点=2020年では拓郎最後のライブ)のオーラス「今夜も君をこの胸に」は「LIVE73」の「望みを捨てろ」以降の拓郎の変遷の到達点を表しているように聞こえてきます。「今夜も君をこの胸に」は1983年。森下愛子との逢瀬を歌っているのは間違いないでしょう。窓から星が流れるのを見たあの部屋からから約35年。長きにわたって育み、しおれてなお残る森下愛子との愛の形を肯定して、この曲をLIVE73yearsのオーラスに選択したのだろうと勝手に思っています。ちょっといい感じかなあ。・・・と。


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