2022年7月31日日曜日

吉田拓郎アルバム「ah-面白かった」について考えてみた

「愛」が多用されている

最後のアルバムと言われている「ah-面白かった」には、作者本人のライナーノートが付いており、各作品の情報がそこそこわかるようになっています。逆に、ライナーノートがなければ、何について書かれているのか、コアなファン以外は分からないのではないかと思ってしまいます。

まー、考えてみると言っても、拓郎の歌詞は難解でそんなに簡単ではありません(分かりすぎる歌詞も多いけど)。ライナーノーツに書かれていることと、オールナイトニッポンゴールドで本人が語ったことと、今までの歴史を振り返り、考えてみました。あくまで私見であり、見当はずれな部分もあるだろうし、憶測しすぎなところもあると思います。思い直すところがあれば書き換えていく予定です。

アルバム「ah-面白かった」で特徴的なのは、「愛」という言葉を今までになく多用しているところだと思います。

以下6曲で歌詞の中に「愛」が含まれます。

「ショルダーバッグの秘密」「君のdestination」「アウトロ」「ひとりgo to」「Together」「ah-面白かった」

全9曲中で「愛」が含まれていないのはたった3曲。

「Contrast」 「雨の中で歌った」「雪さよなら」

「愛」という言葉は使っていないものの、

「雨の中で歌った」「雪さよなら」

が、過去の女(ひとw)について歌っています。この二人に対しては、出会ってきた人たちの中(愛したことがある人の中)で、対立を生まなかった二人なのかなと考えています。

また、「Contrast」は、”愛なき世界”と”愛ある世界(一本の道≒音楽のある道)”のコントラスト(明暗)の事ではないかとも思っています。
付録のDVDの最後でも、拓郎は愛について語っています。


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港々の女

そもそも、「ah-面白かった」には母と義母を除けば、女性が歌のテーマとなっている曲は「雨の中で歌った」「雪さよなら」の2曲だけです。この2曲は過去の女性を歌ったようです。「雨の中で歌った」はライナーノートで「たえこMYLOVE」(1979)のモデルになった女性だと書いているし、「雪さよなら」は、岩手放送局のスタッフの女性と書いてあります。
おそらく、港々にいい感じの女性がいたのでしょう。若いころの拓郎はモテモテだっただろうから。・・・そりゃ、面白かったことでしょう(笑)。

多くの女性(モデル)の中でこの2人を選んで、曲順もわざわざ続きにしたのです。2曲も昔の女のことを綴ったのは、2人が印象深かったのでしょうね。あちこちの港の女を全部のっけるわけにもいかないから、特に印象深い(情を残している)2人をセレクトしたのかもしれません。

愛子(現)婦人をもろに歌ったと思われる曲は見当たりません。このアルバムに散りばめられた「愛」というワードの中のどれかは愛子夫人の事なのかもしれないけれど。

そう考えると、”ah-面白かった”の「愛はこの世にありました」の愛は、愛子夫人と育み貫いた愛ではないかと思うのは私だけ?


「雨の中で歌った」について

「たえこMYLOVE」は発売日は1976年12月5日です。このたえこと言う女性との件は、オケイさんか美代ちゃんのどちらかの伴侶の政権の下での話だったのだろうと思います。「君を追って、雲の上に僕も旅立つよ」とか歌っていましたど、伴侶にしてみれば身勝手この上ないですよね(笑)。バーで出会ったたえこさんの「自殺願望に付き合いたい」と言っているわけですから、伴侶にすれば「じゃあ、私はどうなるのよ」って話です。当時、私は中学生だったけど、「何言ってんだ拓郎??」と思っていました。




それをまた45年をへてこのアルバムで完結編を発表しています。「たえこMYLOVE」で(たえこに)「思い出なんかにしないよ」と歌ったとおりに完結編の作成を実行したんだろうでしょうか。(「たえこMYLOVE」で(たえこに)「馬鹿な人ね、あんたって男」って言われたとおりに、拓郎って馬鹿な男(ひと)だわ。いやいや、大好きなんですけどね。俺が愛した馬鹿な拓郎です(笑)。
で、ラストアルバムに収録された「雨の中で歌った」には、次のような一説があります。

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少し雨が止んだら もう一度 この道を走りたい

君と二人笑いながら 走ったように

もうすぐ雨が止んだら表参道 歩いてみようか

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走るんか、歩くんか、どっちやねん(笑)。そうか拓郎、もう走れないのかな。歩こうね。

おそらくこの頃の拓郎は夜の街を愛していて、ふらふらしていたのだと思います。このころの曲には当時の原宿~六本木の空気があふれています(いや、当時私は地方都市の中学生だったから知らんけど)。「三軒目の店ごと」「たえこMYLOVE」「風の街」「午前0時の街」「あの娘に会えたら」「乱行」「街へ」など、街の夜のムードがとってもいいです(「風の街」は昼か)。そりゃあ、aaaaaa-h、面白かったことでしょう。


「雪さよなら」について

「雨の中で歌った」が「たえこMYLOVE」の続編であるように、「雪」(1970)に一連を書き加える形で完結編としたとのことです。わざわざセルフカバーするというのは、けっこうな思い入れがあったのでしょう。この雪の夜は岩手放送局のスタッフの女の人とのことを歌っているそうなのだけれど、拓郎本人は詳細は覚えてはいないようです。それでも、この女の人のことを強く印象に残っているようです。ライナーノートでは、「二人きりになって午前0時を回っていた」と書かれているので、「そんな関係」になったのかもしれません。


今回、付け加えられた歌詞の中に、

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さよならを言い忘れてた

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と、あります。この「さよなら」は、岩手の女(ひと)に宛てているようで、もう会うこともない港々の女(笑)に対するメッセージも含まれているのかもしれません。さらに、もうコンサートでも会いに行くことはないというパンピー女性に対するメッセージも含まれているといいですね。

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いつかまた あなたの街へ

僕の旅が続く夢を見る

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と、わざわざ「旅」と表現しているのだから、「僕の心(夢)の中で、あなたたちとの愛は続いているよ」という心優しい(?)拓郎のメッセージなのかもです。
「雨の中で歌った」が都心の人たちへのメッセージ、「雪さよなら」は地方の人たちへのメッセージだったりして。

これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛、半ば愛、ちょっと愛ww


監修:森下愛子?

さて、このアルバムはコロナ禍の時期に作られており、自宅で作曲や編曲・演奏をかなりした模様です。自宅ではもちろん、愛子夫人とともに引きこもっていたはずですから、愛子夫人の意向をくんでいる面もあるはずです。何しろ最後の「ah-面白かった」は愛子さんに深く関わっている曲なのですから。クレジットに「監修:森下愛子」を加えてもいいのではないかと思えます。

そうすると、「雨の中で歌った」「雪さよなら」という昔の人の歌を愛子さんがなぜ許したのかという謎も出てきます。アルバム「マッチベター」以降の男女を描いた作品には、アルバム「俺が愛した馬鹿」以前の生々しい実況中継のような恋愛(伴侶や伴侶以外との女性との恋愛)を描いている感じがあります。「マッチベター」以降のアルバムには、「監修:森下愛子」とまでは言わなくても、愛子さんの影響があるような気がします。3度目の結婚以降の拓郎は作品作りの際に、愛子さんを慮ってたのかもしれないです(「夕映え」とか)。



浮気現場をフライデーに撮られた際も、

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ごめんね軽率に 躓いて
  「トワイライト」(2000年)

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と、曲の中で謝罪させられていますw
もしかすると今回、「雨の中で歌った」「雪さよなら」をアルバムに挿入するにあたって、何らかのご意向を愛子さんに伺っていた可能性があるのではないでしょうか。「雨の中で歌った」「雪さよなら」は、「そんな関係がなかった女性の曲を選んだ結果」であるかもです。

女心なんて私にはまるでわからんのですが、何人かの女性から、「肉体的な浮気より、本気(心からの浮気)の方がつらい」と、聞いたことがあります。50年も心に残していた原宿の「たえこ」や岩手の女(ひと)を愛子さんは許したんでしょうか。愛子さんを含めた1000人ぐらいにインタビューしてみたいです。「伴侶がいながら他の女のことを歌うってどうよ?」


「Ah-面白かった」について

ラストアルバムのラストに位置するこの曲は、拓郎の発表した曲の中で、(曲順としては)ラストを飾ることになる曲になりました。愛に溺れたり、躓いたり、長い音楽人生の果てにたどり着いた「静」な愛子さんとの日常への肯定なのでしょう。
コアなファンではない人がライナーノートを見ることなくこの曲を聴けば、「わざわざラストにこの曲を持ってくるって、拓郎さんって、お母さん思いなんだなあ」と思ってしまうかもしれません。実母と義母(愛子さんの母)の2人とのことを描いていることも、分からないかもしれないです。
「ah-面白かった」が、愛子さんが出演したドラマ『ごめんね青春!』(TBS系)の中での臨終シーンでつぶやいた「ああ、面白かった」というせりふから引用されたものであることも、「オールナイトニッポン」を聴いていたコアなファンしか知らないでしょうねえ・・・。

じゃあ、本当にこの2人(と、その娘である愛子さん)にささげた曲なのかというと、そうでもないと思っています。拓郎自身がオールナイトニッポンで、この曲について以下のように語っています。

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アルバムのラストの運命の一曲となる。歌っていていろんな思いが浮かんだ、母親たちのこと、妻のこと、自分のこと、心こめて応援してくた小田和正、Kinkikids、篠原ともえ、奈緒さん、わがまま気分屋の僕を支えてくれた竹林くん、飯田さん、何回もダメ出ししてもめげないで魂の演奏にトライしてくれた武部・鳥山くんらの顔が浮かんだ。ボーカルが揺れているような気がする。でも修正しない、歌い直さない、ありのままでいこうと決心した。  (© t.y life All rights reserved.より)

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アルバムに散りばめられた「愛」というワードはここで収束しているのだろうと思います。男女や親子の愛だけにとどまらず、

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愛はこの世にありました

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と、愛を肯定しています。

「ひとりgoto」でも

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時を抱きしめ つらぬく愛は

そこにあったと 伝えてよ

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と歌っています。

「つらぬいた愛」は愛子さんと育んだ愛という意味合いは強いのでしょう。

そして、最も大切な伴侶に向ける愛は、上記のオールナイトニッポンでの拓郎の言葉の中に挙げられている人々への愛にもつながっているのだろうと思います。そしてそして、そこに挙がっていない人々やオーディエンス、いや、もっと広い人々への愛も含まれているかもしれません。

拓郎はラストライブ「Live73y」でも、ラストの曲として愛子さんとの逢瀬を描いた「今夜も君をこの胸に」を歌いました。これもまた、愛子さんへの愛に乗じて、オーディエンスたちに対する広い愛情についても語りかけてくれたのだと勝手に思っています。

拓郎が引退に際したこのアルバムの中に「愛」というワードを多用し、それを肯定しているような気がします。毒舌を吐きながらも、「一人だ、一人だ、人は一人だ」とか、「人間なんて」とか言いながらも、その時々に形を変えながらも人を愛してきたのではないのかと。

 #2:君のdestination #4:アウトロ # 5:ひとりgo to

なんかも、同年代はもとより、若い世代へのエールなのではないかと思っています。


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長年のファンとして、「よかったなぁ、拓郎。おつかれなま。」と言ってあげたい気持ちです。

2022年3月20日日曜日

たくろうオン・ステージ第二集 ~吉田拓郎「原石の輝き」

10年限界説

たいていのポップミュージシャンは全盛期は10年ぐらいで、その後はだんだん似たようなフレーズが多くなってきて、作曲能力が衰えてゆくのではないだろうか。それは、私が勝手に思っていることで、例外はあるのだろうけれど、大体当たっているような気がします。
ポールマッカートニーだって、ビートルズ以降の曲は繰り返して聴こうとは思わないし、ビリージョエルも輝いているのはデビューから10年間ぐらいの曲だなあ。松任谷由実、桑田佳祐、桜井和寿・・・。拓郎のアルバムも、繰り返して聴くのは「ローリング30」までで、それ以降のアルバムをまるごと1枚聴き返すことはあまりないです。聞いたとしても、アルバム中の1曲を聴きたくなるぐらいで。「午前中に」(2009)は、けっこう聞きますが・・・。
拓郎本人だって「あのころの曲を超えることはできない」と言っています。若い時代の研ぎ澄まされた感性によって生まれた曲が神がかっているわけで、その後の曲がそれほど神がかっていないことについて、ミュージシャンを責めてみても始まりません。1970年代の拓郎の作品は本当に神がかっています。

幻のアルバム

「たくろうオン・ステージ第二集」(以降、「オンステージⅡ」)は、1972年12月25日に発表された、拓郎のライブ・アルバム。エリックという弱小レコード会社が拓郎の許可もなく発売してしまったために拓郎が反発し、廃盤となってしまったという悲しい経緯があります。したがって、公式ルートでは手に入りません。しかし、ネット時代となった現在、(違法ではあるものの)聞くことができてしまいます↓↓↓。




1971年8月11日から8月13日に東京渋谷にある渋谷ジァン・ジァンで3日間連続で行われたリサイタルを収録したとWikipediaには書いてあります。「よしだたくろう オン・ステージ ともだち」は、1971年6月7日の発売(録音は3月とか)なので、その数か月後の状態が録音されていることになります。発売時点では全曲がアルバム未収録曲だし、その後のアルバムで収録されたものは、「恋の詩」「かくれましょう」「人間なんて」「静」「ゆうべの夢」ぐらいでしょうか。ライブでもあまりこのアルバムの曲がセットリストに入ることはなかったようです。つまり、公式ルートではアクセスすることが難しい曲たちということになります。
拓郎に公式認定されず、後のライブでも取り上げられなかった「オンステージⅡ」の収録曲の数々。エレックが倒産してしまったこともあって、「オンステージⅡ」は「幻のアルバム」となり、長い間、音源が手に入りませんでした。十数年前にネット時代となってやっと手に入ったのだけれど、老後のおやつとしてもっと後になって聴こうと考え、やっと聴いたのが昨年、2021年です。黄金の1970年代のアルバムだからきっと素晴らしいのだろうという期待に、十分に応えてくれました。
拓郎本人に廃盤にされた作品ですから、完成度は高くないかもしれないけれど、デビュー初期の原石の輝き、ほとばしる才能のきらめきには、心を打たれるものがあります。1970年代に発表された曲には自分の心のどこかをいじられたような感覚があります。1970年代のアルバムにはすべて衝撃を受けましたが、この令和の時代、私もほぼほぼほぼ老人となり感性が擦り減ったの現在でも、「オンステージⅡ」は衝撃的な体験となりました。

それは、何だかわからない

何が衝撃的なのかと言われると、「それは、何だかわからない」です。自分の中にある核になる部分に直接作用して、変な気分にさせられるというか・・・。それぞれの時代に、その時代独特の背景があり、1970年代の拓郎作品と同じく、「オンステージⅡ」には、1970年代独特の空気が刻まれているように思います。
吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】
宇崎竜童が「メロディーは創り出すというより降りてくるんだよ」といった発言をしていました。名盤は時代が産み出すというか、名盤には時代が降臨しているというか・・・。
1970年代は消費社会化が進んでどんどん豊かになっていったというイメージがありました。万博で幕を開け、トイレは水洗に、テレビはカラーにと・・・。同時に暗い影を落としていたこともたくさんあります。いつの時代も、人は残酷で、自然も残酷です。いつの時代にも狂気が存在していると思います。今現在も、ウクライナが狂気の沙汰になっています。

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時代が少しは変わっているけど 狂ったところは今も同じさ

   「俺が愛した馬鹿」(1985)

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1970年代という時代が持っていた狂気と、若き日の拓郎の個人的な狂気が重なって、1970年代の作品には凄みが感じられます。
吉田拓郎「私は狂っている」~確かに、狂っていたと思う
「オンステージⅡ」の作品群にも、時代の狂気が憑依しているように思います。

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大きな夜につつまれて 僕はなぜだかこわかった
【中略】
大きな夜につつまれて 僕はひとりがこわかった

   「大きな夜」(1971)

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確かに、当時の夜はまだまだ暗くて、怖かったです。名曲「真夜中のギター」とはまた違った趣がありますね。「ここにおいでよ、みんな孤独でつらい」なんていう呼びかけ(連帯)はありません。夜が怖くて孤独だという身も蓋もない個人的な詩です。作曲者である拓郎本人の意図を超えて、当時の夜(「夜」にメタファーされた「社会」)の怖さが伝わってくるような気がします。歌詞だけではなく、メロディーや演奏や歌声がそれを(本人の意図を超えて)表しているように感じます。

「大きな夜」に続いて歌われる「僕一人」もまた、身も蓋もない個人的趣向を「中近東風」(本人談)の不思議な魔力を持ったアレンジで聴かせます。Beatlesの"Here Comes The Sun"にもちょっと似ているような。

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一人でいたい 座っていたい
一人でいたい ベンチと僕

   「僕一人」(1971)

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何でもないと言えば、何でもないのだけれど、当時の同調圧力の強い農耕型社会(都市も地方田舎もまだまだ農耕型だった)へのアンチテーゼだったのでしょう。この後、多くのしがらみを断ち切り、仕組みをぶち壊してゆく拓郎のポテンシャルエネルギーが垣間見えます。「これからも道を外しますよ」と、宣言しているみたいです。

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でも僕には関係ないことだ 自分のことだけで精一杯だ

   「準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響」(1971)

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これもまた、個人的な曲ですね。特定ができる個人の名前を出してどストレートに長尺で、愛憎を告白しています。しかもアルバム冒頭w。地方に残してきた元恋人が気がかりなのだけれども、「自分のことで精一杯」だと正直に言ってしまう一方で、時代のうねりの中で変わってしまう自分を哀しんでいるようにも聞こえます。

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女の娘 女の娘 何とかならないか
何とかしてよ 女の娘 せめて僕が恥をかく前に

   「何とかならないか女の娘」(1971)

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女の子に「そんなに同じようなファッションをするなよ」と、苦言を呈しているのでしょうか。かなりちっさい話wにけっこう淫靡なメロディーwwをつけて歌っています。この曲以外にも、「トランプ」「腹減った」「雨」等、拓郎が公式音源としては認めたくないという気持ちは分かります。アルバムが弾き語りを中心に構成されていて、「フォーク」と呼ばれるのに辟易していたのかもしれません。しかし、リスナーとしては不思議に心が揺さぶられるこの曲たち。廃盤にしておくのはもったいない気がします。
近年、拓郎がラジオで「自分は谷村新司の「昴」のように大仰なことは歌わない。」と語っています。その姿勢は今も変わりません。「季節の花」(2009)なんかも、日常を切り取った名作だと思います。このアルバムは全体を通して「自分たちの小さな日常」を切り取ってスケッチしています。ラストの大作「人間なんて」(1971)を除いては、本当に淡くて小さな日常を切り取っています。まあ、「人間なんて」だってガーガー歌っているけれど、けっこう個人的な日常の切り取りです。だからこそ、モワッとした1970年代初頭が立ち上がってくるように思えます。拓郎の70年代が炸裂する前の、原石のギラリとした輝きが垣間見えるような気がします。このライブは伝説となっている1971年8月8日の「中津川フォークジャンボリー」の3日後からの3日間での録音ということになります。ギラついているのも頷けます。

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ある夜 悪い男のために 混血娘と笑われて
日本人にだまされた 日本人が傷つけた

   「日本人になりたい」(1971)

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こちらはモロに時代をスケッチしています。1970年代前半はまだ、戦後の風景を残していましたね。バラックや傷痍軍人。特に広島には大きな傷跡が残されていたと思います。多分、個人的にハーフの女の子に思い入れがあって作られたのだろうと思います。

「ポーの歌」と「恋の歌」といった故郷の青春ソングが含まれているのも興味深いです。1970年代前半はまだまだ農耕型社会であり、牧歌的でありました。光あるところに影がある(サスケ)。


押し黙る

淡いスケッチが続く「オンステージⅡ」の中で、やや主張の強い歌詞だなと思うのが「かくれましょう」です。作詞は岡本おさみです。

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怒りは奥に飲み込み 悲しみは微笑みに変える
本音は衝動で吐くものではありません
かくれましょう かくれましょう
かくれましょう かくれましょう
結局のところ いつかは開き直る時が来る
時期を 待ちましょう

   「かくれましょう」(1971)

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「花嫁になる君に」が岡本おさみとの初の共作だと言われることがありますが、もしかしたらこの曲の発表時期の方が先なのかもしれません。この曲は「COMPLETE TAKURO TOUR 1979 [Disc 2]」(1979)や「Oldies」(2002)にも収録されています。なんと「Oldies」では最終曲という位置づけです。「黙り込んで待つ」という姿勢は、その後の作品にも繰り返し出てくる姿勢です。

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空を飛ぶことよりは 地を這うために
口を閉ざすんだ 臆病者として

   「人生を語らず」(1975)

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拓郎は自分でも太鼓持ちだと言っており、実際サービス精神が旺盛で、陽気で明るいという側面があります。「オンステージⅡ」のMCでも、ファンに対して余計な(笑)おしゃべりをする正直者の拓郎の姿が垣間見えます。落花生とか(笑)。それと同時に、何かを飲み込み、押し黙っているイメージもあります。
①話さないと決めてずっと話していないこと。
②話さないと決めていたけど時効となって話してしたこと。
③話してはいけないのについ話してしまったこと。
④話したくて仕方なくて、話しまくること。

など、「拓郎と黙秘」には、いくつかのパターンがあります。身内に話してもファンには話さないことも多々あるようです。

名盤認定

「オンステージⅡ」の後にも、公式音源としては残っていない「ライブのみでの発表曲」がたくさんあるのも、拓郎の創作活動の特徴でもあります。押し黙るというパターンに似ていて、「ライブでファンに対しては歌うけれど、決して公式音源としては残さない」というある種の場面緘黙戦略なのでしょう。
少々粗削りなそれらの楽曲の中でも、「オンステージⅡ」として一時期非公式ながら販売されたこの作品群は、そろそろファン歴が50年に近づいてきた私の胸に刺さりました。拓郎自身には公式アルバムとして認定されていない「オンステージⅡ」ですが、私が認定しましょう。
  「名盤です。」


2022年3月5日土曜日

吉田拓郎と男と女の関係は ~女性は「君」「お前」「あなた」「女」【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.7】

吉田拓郎とジェンダー

「戦前の夫唱婦随」から「戦後の男女平等」、「1970年当初のウーマンリブ運動の時期」、「セクハラ&パワハラ断罪の令和の時代」まで、男女の関係の在り方は、大きく変わりました。「吉田拓郎とジェンダー(フリー)」を語ってみるのはけっこうおもしろいと思います。
一応、男女の平等がはっきりと憲法に定められたのが1947年だから、拓郎(1946年生まれ)が属する団塊世代は「男女平等ネイティブ」という事になります。とはいうものの、憲法で男女平等が謳われていても、昭和はまだまだ男尊女卑が残っていました。「強権的な父親」「男尊女卑の強い鹿児島生まれ」「戦後の政治的混乱があった広島育ち」「両親の別居に伴う女性ばかりの家族生活」「体が弱かったことによる男性社会からの脱落」という拓郎の青年期までの環境。また、その後も「体が弱かったことを克服したことによるマッチョ志向」「本質的に女好き」「音楽業界的での女遊びの慣習」「繰り返された出会いと別れ」「病魔との闘い」「老齢になり女性化」などの様々な要因が絡み合い、「男・吉田拓郎」の
ジェンダー観(≒男性観・女性観)も大きく変化しているようです。有為転変、世の不確かさについて歌ってきた拓郎氏、男女関係についても、下記のように歌っています。

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男と女の関係は 誰も知らない分からない

   「男と女の関係は」(1983)

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成人して東京に出てゆくまでの間、女性に囲まれて育った広島時代が拓郎に与えた影響は多大だったことでしょう。拓郎の多面的で複雑な女性観はこうした状況によって醸成された部分はあるでしょう。

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顔なじみのお酒好きで女好きな
愛を振りまいて のし歩く
憧れの君
今夜はどの娘の 腰に手をまわし
浮かれて踊る
楽しきかな今宵 夜が回ってる
   午前0時の街(1976)

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女性と一緒にいることが幸せそうですね。一方で

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古き時代と人が言う 今も昔と俺は言う
バンカラなどと口走る 古き言葉と悔やみつつ

   「我がよき友よ」(1975)

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と、男らしさへの拘りも強いです。学生時代は応援団に所属していたこともあったそうです。おそらく、男らしさを求めていたのでしょう。令和の世となり、ジェンダーフリーはさらに浸透してきました。「男(女)なら」「女(男)らしい」などの言葉さえ存立の危機です。私も昭和男子の端くれなので、男女の性差を無視したような話はちょっと違うような気がするのですが・・・。

硬派のようでもあり、軟派のようでもある拓郎。かなり捻じれてはぐれたけれど、令和まで生きてきたね、拓郎さん。


吉田拓郎は女性に対してどのような呼称を使用してきたか

「吉田拓郎が女性についてどのような呼称を使用してきたのか」という観点で少し考えてみました。恋愛感情がある相手をどう呼ぶかは2人の距離を測るためにも、けっこう重要なポイントだと思います。歌詞の中での呼称の変遷について全歌詞検索でもしてみたいものだけれど、全歌詞をデジタルのテキストで持っているわけでもありません。従って、以下は私の記憶と推測に基づくことも多い内容になることをお許しください。間違いがあったらご指摘ください。

拓郎本人作詞ではないですが、けっこう面白いのが風見慎吾に提供した曲「僕、笑っちゃいます」(1983)の、こんなフレーズです。

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夏になったら 砂浜で

君を「おまえ」って 呼びたかったよ

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作詞は「欽ちゃんバンド+森雪之丞」となっています。若い男の子のその気持ち、昭和世代にはなんだか分かる気がして笑っちゃいますね(笑)。この部分を除けばあとは全部「君」で統一されています。ちなみにこの曲とアルバム「176.5」(1990)だけで森雪之丞とはコンビを組んでいます。ちなみに「176.5」で共作した5曲はいずれも「君」でした。


歌詞の雰囲気や設定・語呂合わせ・リズム感など、どの呼称を使用するかはおそらく拓郎も作詞家もそれなりに考えているのだと思います。もう少し詳しく見ていくと…

【君】
<一般的に>相手を大事にしているという表現かな。フラットなムードです。下手に出る事情がある場合に使う。社会人にしてみれば、「君」は格下の相手に使う呼称ですね。
<拓郎的に>下手に出る事情がある場合に使っている気がします(笑)。割と初期から基本的に「君」が多いように思います。ある意味、さわやか。ちなみに、男性に対しても「君」は多用されている。
<例>デビュー曲「イメージの詩」「マークⅡ」(1970)・「結婚しようよ」(1972)「君が好き」(1973)・「シンシア」(1974)・「今は恋とは言わない」(2009)

【あなた】

<一般的に>貴方や貴女と書くらしい。かなり大切な相手を呼んでいる感じ。あがめているのかもしれない。女性に「あなた」と呼ばれたい男は多いかもしれない。しかし、男性が女性を「あなた」と呼ぶのはかなり親密か、もしくは距離があるかのどちらかの気がする。
<拓郎的に>憧れがあるかも。稀な気がするし本人作詞で女性に対して「あなた」はなかったかも。「あなたを愛して」「外は白い雪の夜」など、女性を主人公として男性によびかけるものは、ある。
<例>「恋唄」(1978)しか思い浮かばないのだけれど・・・作詞は松本隆

【お前】

<一般的に>昭和はまだまだ男尊女卑傾向が強く、女性に対して「お前」と呼ぶことにそれほど違和感はなかったと思います。歌詞、特に演歌系の歌詞には多用されていたと思います。場合によっては親しみを込めて、近さを表現する時にも「お前」を使っていたかもしれません。女性も「お前」と呼ばれる事には所属感があって嬉しかったのではないかと想像しています。私自身、お前と呼び合える親しい仲は歓迎していたけれど。平成も後半になるともう、女性に使うには死語に近いのかもしれないです。かなりのイケメンが上から目線で「お前」と言った時には「キャーキャー」となりますが、そうでない場合は悪い意味で「キャー!!」とドン引きになりそうで使いづらい(笑)。職務上、かなり上位の男性が言ってもドン引きされるセクハラワードになってしまった感があります。

<拓郎的に>ちょっとグイグイ行きたい女性に対して使っていたように思います。または近い相手。1980年代前半にはけっこう使っています。その他の時期は、作品の上では、あまり「お前」を使わず、「君」を多用していたのではないかと記憶しています。その方がフラットで爽やかだからね。拓郎は割と女性に対して紳士的な態度をとる一方で、マッチョな態度に出るところもあるように思います。

<例>アルバム「俺が愛した馬鹿」(1985)ではかなり強めに「お前のような馬鹿」と綴っています。

吉田拓郎「俺が愛した馬鹿」って、誰がアホやねん!~「風になりたい」の「私」は誰でしょうを参照。

他にも、

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ベッドの横に ゆうべの女

目を覚ませよ お前との愛は

午前3時に もう終わってるのさ

 「すいーと るーむ ばらっど」(1983)

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荒んでいます。女性を性欲のはけ口として見ています。令和時代でこれを歌うのはかなりやばいな(笑)。

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お前の体を 抱きしめていたい

すさんだ心を なぐさめてくれ

   「お前が欲しいだけ」(1983)

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お言葉通り、かなり荒んでいますね。

これらの「男と女の関係は」「チェックインブルース」(1983)「抱きたい」(1985)など、森下愛子との結婚に至る過程で出来たと思われる曲には「お前」が使われていることが多いようです。
一方で森下愛子さんとの逢瀬を想起させる「今夜も君をこの胸に」(1983)にはロマンが溢れていて、「君」を使っています。「I'm in love」(1983)では、

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このまま世界の終わりが来てもかまわない
君と一緒に死んでいけるならすべてを許そう

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とまで歌っています。当時、私はまだ学生だったので、「いやいや、勝手に世界を終わらせないでくれよ。」と思いましたが(笑)、かなりもう、愛子さんにメロメロだったんですよね。

この時期(1980年代前半)の拓郎作品には、情緒不安定が呼称にも表れているような気がします。

フラットな関係への回帰

拓郎の一般社会でのブレイクは「結婚しようよ」で間違いないと思います。

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僕の髪が 肩まで伸びて
君の髪と 同じになったら
約束通り 町の教会で
結婚しようよ

   「結婚しようよ」(1970)

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という男女のフラットな関係性を歌った歌詞は、当時の社会においてはけっこう衝撃的だったと聞いています。

吉田拓郎「結婚しようよ」におけるフラットな男女関係 【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.1】
そこが出発点だったのだろうし、拓郎の基本的な立ち位置だったのではないかと思います。1980年代には少々マッチョになり、荒み気味だった時期もありました。それは昭和男子と昭和女子の中にあった性差であり、お互いが背負ってきた性役割だったのかもしれません。しかし、コンサート撤退(2019)前後のラジオで、森下愛子との静かな日々について拓郎はよく夫婦関係の変化について語っています。ドラマ撮影による妻不在の生活の話を語る拓郎はちょっと可笑しいです。「気分は未亡人」(1984)の逆の立場みたいです。「夫婦の姓が入れ替わり、自分が女性化している」といった内容の内容の発言もありました。拓郎は笑いながら愛子夫人と築いてきた親密な関係を話してくれます。夫婦という形が昇華された後の、人間としての関係性。激動の時代を経て、拓郎夫婦に安息の日々があることに長年のファンとしての喜びがあります。
ラストコンサートのアンコール(ラスト)で歌われた「今夜も君をこの胸に」。いつも雨降りだった拓郎も、雨上がりの陽だまりのような心境にたどり着いたんじゃないかな・・・そんな気がします。
吉田拓郎【LIVE73y感想-10-今夜も愛をこの胸に】

2022年2月20日日曜日

吉田拓郎「私は狂っている」~確かに、狂っていたと思う

拓郎は狂っている

よしだたくろう・オン・ステージ「ともだち」(1971)の中に収録されている「私は狂っている」が、とてもとても好きです。「ともだち」はエリックレコードから公式に出された3枚のアルバムの2枚目で、ライブアルバムです。デビュー作「青春の詩」と出世作「人間なんて」に挟まれています。

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若すぎて何だかわからないのだけれど、前へ、前へと進まざるを得ない青春期に、もしかしたら自分は狂っているのではないかと思ってしまうことが、あったのだろうなと思います。普通の人でも、青春期はそこそこ狂っているものでしょう。当時の拓郎の状況を考えると、なおさら狂っていたことでしょう。ある種の狂気を孕んでいるいなければとうてい乗り切れるような状況ではなかったかと思います。まさに「狂気の沙汰」。音楽界で身を立てようと都会に出てきて、デビューを果たすというところまでで、かなりの摩擦や消耗・衝突が生じたことが伝えられています。前後の1年間を見ても、かなり強烈に動き回っています。トピックを拾ってみました。

1970年
11月1日 ファーストアルバム「青春の詩」発売
1971年
6月7日 アルバム「よしだたくろう・オン・ステージ ともだち」発売(録音は3月?)
7月21日 シングル「今日までそして明日から」発売
8月8日 第3回中津川フォークジャンボリーでの「人間なんて」の熱狂
8月11日~13日 後に発売される「よしだたくろう・オン・ステージ第二集」の録音
11月20日 アルバム「人間なんて」発売

この短期間で、作詞・作曲・録音に追われていたでしょうし、記録に残っていないライブ活動も盛んであったようです。岡林信康を追い落としたと言われる中津川フォークジャンボリーを頂点に、まさに渦中の人になりつつあったのでしょう。「私は狂っている」の一節に「岡林をどう思う」と綴った数十日後のことです。そして「オンステージ第二集」が中津川フォークジャンボリーの数日後に録音されていたことにも驚きです。
ものすごい数のものすごいエネルギーを持った人たちとの関りを持っていただろうと考えると、クラクラしてきます。エリック社員・ともだち・マスコミ・音楽関係者。ファーストアルバム「青春の詩」にも狂気が秘められています。

「青春の詩」吉田拓郎の正直 ~デビューでいきなり●●●【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.0】

「人間なんて」では加藤和彦・松任谷正隆・小室等など、たくさんの才人を引き寄せています。凄い磁力です。

とにかくどストレートな拓郎さんです。広島でもなんだかんだあったという話が残されていますが(写真部退部事件とかw)、東京に出てきてさらにひと悶着もふた悶着もあったみたいです。拓郎本人が話している範囲のこともけっこう面白いけど、拓郎本人が「話さないことがある」とおっしゃるように、たくさん、いろいろあったんだろうな。

そしてさらに狂気の渦に巻き込まれてゆくような拓郎の1970年代を、「私は狂っている」は予告していたのではないかという気がします。怒涛の1970年代、常人ではない10年間です。音楽界との闘い、マスメディアとの闘い、私生活の混乱。

吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】


クレイジーなエネルギー

「何のために生きている」「お前はプロかアマチュアか」「お前は社会派か」「岡林信康をどう思う」

歌の中で、拓郎は「すると僕はこう答える 体裁つけて」と、背伸びをしている自分を客観視しています。ひと癖もふた癖もある人たちが自分の周りに集まってきて、何か言い寄ってくるのに対応するのはたいへんだったろうな。最後にたたみかけるように吐き出すこの部分が秀逸です。

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誰かが 誰かが 誰かが 誰かが

聞かれるたびに僕の答えは違ってる

は 私は 私は狂っている

狂っているのに それでも答えてる

「私は狂っている」(1971)

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自分が話していることにも、そして自分の中で考えていることにも整合性が取れなくなってしまっていることを認めています。確信犯。狂ってはいるけれど、進んでゆくしかない状況を背負っていく覚悟も恐怖も快感も感じられます。「今のことも、先のことも、わかんねえよ。でも、何かをしないではいられないんだ」という「思い」で生きていかなければならないのが人生です。Rollingstones”Monkyman”(1969)の終盤でミックジャガーが絶叫しているのに通じているような気がするのは私だけ?


「今日までそして明日から」(1970)も、「私は狂っている」と通じるものがあると思います。

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私には 私の生き方がある

それはおそらく自分というものを

知るところから始まるものでしょう

けれど それにしたって 

どこでどう変わってしまうか

そうです わからないまま生きている

明日からのそんな 私です

「今日までそして明日から」(1970)

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この曲を初めて聴いた時はまじめな小学生だったので、何だか一貫性のない変な人だなあと思ってしまいました(笑)。

「オンステージ『ともだち』」には、斉藤哲夫の「されされど私の人生」のカバーが収録されており、その後のライブでも愛唱していました。

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一時停車を試みてみたが 冷たい風は私の中を

狂気のごとくさ迷い歩き 果ててこの世を去ることのみ

変わる 変わる 目の前が 

変わって それでおしまいさ

されど私の人生は されど私の人生は

「されど私の人生」(1971)

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高速で移り変わる東京の街と拓郎の周辺。

「天使と悪魔」「冷酷と温厚」「衝動と静寂」「喜びと悲しみ」「栄光と挫折」「狂気と正気」「躁と鬱」・・・誰もが相反する二極を抱えながら生きているのだろうけれど、拓郎の振れ幅はマックス大きかったんだろうなあ。

天才と狂人は紙一重

新しいものを創り出したり、大きな流れを変えたりする人は、往々にして狂ったところがあります。「何だかわからんがー、進むぞゴラァ」という当時の拓郎が持っていたポテンシャルエネルギーの凄さがうかがえます。狂ってでもいなければ進めない道だったと思います。

ゴッホ、ゴーギャン、シューマン、キースリチャーズ、エジソン、アインシュタイン、野口英世・・・中島みゆきも入れておこうか(笑)。上へ下へ、右へ左へと大きく振れながらも、偉大な創造・業績を残し、慈愛に満ちた彼らの人生。

強烈なひらめきと自己愛と自己嫌悪。巻き込まれる周囲の人も大変だったと思います。かまやつひろしがつま恋コンサート(2006)で、拓郎本人に「吉田さん、相変わらず、性格悪いねぇ」「でも好きよ」と笑いながらと話しかけています(あー、このシーン泣けるわ)。

マッドでもクレイジーでも、ドン・キホーテでも、流れを変えた拓郎は偉大だ。若輩者ながら、私もクレイジーでありたいと思ったし、今もそうでありたいと思っています。


2022年2月13日日曜日

吉田拓郎「それでも、都会が好きだ」~1970年代の作品における故郷・都会・孤独・喧騒

 

1969年、拓郎の上京物語

東京都の人口は明治初期から現在まで、太平洋戦争時の落ち込みを除いて順調に増加してきており、中でも戦後の30年間の伸びは急な上り坂になっています。 その後、1975年あたりからは鈍化が見られ、横ばい状態となります。成熟期に入ったと考えてもいいと思います。

東京都の年齢3区分別人口の推移

1975年といえば、拓郎のつま恋オールナイトコンサートですね。


1970年代はとにかくあらゆる面で社会の変化量が大きかったように思います。拓郎にとっても激動の時代です。今になって考えると沢田研二の「TOKIO」(1980)は、成熟した国際都市東京を見事に表現していたのだなあと考えさせられます。

1975年までには大衆歌謡の世界で東京への上京物語を歌った作品は多数あったようですが(知らんけど)、その後、演歌(的な歌謡曲)の衰退とともにそういった作品は減っていった気がします(知らんけど)。「北の宿から」(1975)「津軽海峡冬景色」(1977)などは、都会からの敗退を歌っています。今考えれば演歌の「残党」であったのかと。
地方出身者であっても単純労働(出稼ぎとか)ではなく、都会のきらびやかな生活をものにする条件がかなり整ってきたというのが当時の状況でしょうか(知らんけど)。暗くてジメジメした演歌や気難しい全共闘の時代から、明るくポップな商品が受け入れられる1970年代が幕開けたように思います。

1975年。「木綿のハンカチーフ」はある意味、上京物語ソングの集大成だったのかもしれません。おお、ふきのとうの「初夏」もこの年か。

夏の初めの昼下がりは とても馴染めず淋しくなる


矢沢永吉(広島出身)・井上陽水ら昭和の面々(福岡)・大瀧詠一(岩手)・中島みゆき(北海道)なども食うに困ったというほどではないのだけれど、都会での成功を目指して上京してきた人々ですね。

彼らに比べて坂本龍一・松任谷由実・加藤和彦・細野晴臣らは関東圏です。生まれや育ちの違いは、作風にもかなり影響しているように思います。

拓郎(広島出身、1969年に上京)の作品の中にも、特に1975年までの歌詞には「都会の寂しさ」「都会への憧れと敵意」「望郷」が描かれているように思います。上京は多感な青春期の孤独や不安と重なって、独特のメロディーも生み出されました。

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街を出てみよう 今住んでいるこの街が 美しく緑に覆われた 心のふるさとだったとしても 街を出てみよう 汽車に乗ってみよう

「こうきしん」(1970)

ふるさとが好き 生まれたとこが好き

「ふるさと」(1971)

これが自由といういものかしら 自由になるとさみしいのかい

「どうしてこんなに悲しいのだろう」(1971)

麦わら帽子はもう消えた 田んぼの蛙はもう消えた

「夏休み」(1972)

真新しいスーツケースをさげて 集団就職で今着いたらしい 妙に腰の低い男が先頭に立って 何とか会社の旗など振り回している (中略) どうですか 東京って奴に会ってみて どうですか 東京って奴のご挨拶の仕方は

「制服」(1973)

ラッシュアワーをごらんよ 今朝もまた 見出し人間の群れが 押し合いへしあ

「ひらひら」(1973)

都会は嫌だと女に言ってみな どこかに行こうと誘ってみなよ

「三軒目の店ごと」(1974)

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どのラインも都会の煌びやかさ・喧騒・冷たさに戸惑う、上京した若者たちの心情をよくとらえていると思います。街を出てゆく方法が「汽車」だったんですよね。新幹線ではなく、汽車です(実際は、後輩が運転する車で初上京したとのことです)。

私もそこそこの年に住んでいますが、初上京した折にはそのバカでかさと冷たさになんだかセンチメンタルな気分を惹き起こされました。いや、令和になっても「東京って奴」には同じような気分を惹き起こされます。憧れもあり、哀しさもあり・・・・

上記の作品群は「演歌的なフレーバー」の呪縛をかなり抜け出したポップなメロディーとアレンジで「上京物語を」聞かせてくれます。ちょっとオシャレな感じ?でも、どこか拓郎独特の民謡フォレーバーがただよっていて、好きです💓💓💓ww

広島からまさに「街を出てみよう」と東京へと出てきた拓郎。多くの「普通の若者」も東京という波に揉まれ、それぞれの物語の中で様々な思いをしてきたのだろうけど、拓郎が身を投じた場所(音楽界)は常人では考えられないような激変を遂げる世界だっただろうと思います。

「制服」は当時の東京で集団就職にやっときた女の子たちを描き、時代を感じさせられます。彼女たちを迎える東京の甘い夢と厳しい現実。土地に縛られ、よその土地に移動することが非常に困難であった戦前は、農業を中心とする地方で「地元産業に就くというジモティーな人生」がほぼ一択であったでしょう。戦後は長男優遇の制度のせいで食うに困って都会に出てくるパターン(明治生まれだった私の祖父母世代がそうでした)から、TVが牽引するきらびやかな消費社会にあこがれや夢を抱いて都会に出てくるパターンへと、徐々に移り変わっていきます。欧米化してゆく都会の様子を家にいながらTV(動画)でキャッチができるようになったというのは、大きいですね。

それでも、都会が好きだ

1970年代後半にも「都会での生活」を歌った拓郎作品は頻出しています。

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北から吹いた風に追われて 旅立つ僕を許してくれよ 寒い都会に行こうと思う そこで仕事を探すつもりだ

「水無川」(1976)


表参道 原宿は 懐かしすぎる友達や 人に言えない悲しみすら 風が運んでしまう街

「風の街」(1976)

そよぐ風が僕の髪を通りすぎて 街がいつもの静けさに つつまれる頃 思うがままに足をはこべば 靴音のメロディー やさしいあの娘の店はもう近い

「午前0時の街」(1976)

淋しいよ むなしいよ それでも、都会が好きだ 風の街は 誰もが一人

「乱行」(1977)

何に酔う 何にすがる 何が欲しい 何もいらぬ せめてもの レミーマルタンをだきしめよう

「わけわからず」(1978)

故郷に帰ろうなんて言って 帰る故郷なんかありゃしねえじゃないか

「人間なんて」(1979:篠島ライブバージョン)

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1970年代後半の作品には「都会の絵の具に染まってゆく拓郎」の姿が見え隠れします。「乱行」ではついに「それでも、都会が好きだ」と言ってしまいます。五木ひろしは「ああ、誰にも故郷がある故郷がある」(ふるさと:1973)と歌っていましたが、1970年代は地方の都市化や農業離れが進みます。都市の都市化も進み、下水(水洗トイレ)が完備され、銭湯は衰退します。「テレビを媒介とした一億総白痴化」(大宅壮一:1957)がテレビの全盛期である1980年に完成されたと考えると、カラーテレビの普及が進んだ1970年代の変化量はたいへんなものがあったと思います。1970年代前半の拓郎作品にも後半の拓郎作品にも「哀愁」がありますが、その色はずいぶん変わってきています。

故郷を断ち切る

太田裕美「木綿のハンカチーフ」(作詞はその後の拓郎の盟友、松本隆)の【僕】が「毎日愉快に暮らす街角、僕は僕は帰れない」と歌ったのはおそらく「上京物語」のターニングポイントだったのだろうと思います。


1960年代までは、地方社会のしがらみはかなり強固な束縛があったと思います。拓郎の青春時代、1970年代の前後10年あたりには令和の田舎よりずっと「つながり」も「しがらみ」も強かったと思います。農業という産業はもちろんのこと、学校・会社(縁故採用)・家族(家父長制)など、地方独特の制度や仕組みは窮屈なものだったでしょう。田舎の人情がある「つながり」と閉鎖的な「しがらみ」。拓郎は1969年、上京によってその両方を断ち切りました。

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故郷よさらばと家を出て 車に積みこんだ夢と出る 都会に憧れなんてガラじゃない 古臭い 常識と 争ってみたい

車を降りた瞬間から(1990)

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「つながり」を切って孤独を背負い、「しがらみか」ら逃れて自由を得た状況で、「都会のしがらみ」「都会のしきたり」との闘いが始まります。そんな中で生まれた1970年代の拓郎の作品群は、まさに戦後30年(1975)前後を物語る貴重な文化遺産だと思います。見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転したのがちょうど1970年であったのは、とても象徴的です。「結婚しようよ」(1972)に描かれる自由な婚姻は、時代を映す鏡だったのでしょう。最初の結婚も、おそらく「古臭い常識との争い」という一面があったのだろうと考えています。拓郎が上京した当時の東京は、写真や映像で見る限り、かなりの田舎ですね。

1980年以降にも、たくさんの「上京物語」や「都会の哀愁」を歌った作品は作られてきました。もちろんそれらの作品群もとても好きです。
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その頃はまだ若者も あふれるほどの人込みはなく
ほんのひと固まりの芸術家気取りが
明日について熱弁をふるっていた
(中略)
原宿表参道は 誰にも語られなかったドラマを 懐かしい人がやってくると そっと話しかけてくれるに違いない

「街へ」(1980)



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この曲↑のアウトロはいつまでもアウトせずに続いてほしいと思うくらい大好きです。が、1980年以降はどうしても1970年代を振り返ったりそれと比較したりした作品が多く、「回顧感」が強いです。1970年代の吉田拓郎は、本人が「当時の自分は越えられない」と言う通り、神がかり的な存在なのです。

吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.4】

吉田拓郎「いつも見ていたヒロシマ」 ~社会派ではない、というスタンツ

「僕は社会派ではない。」という想いがあったのか、このアルバムの発表後、岡本おさみとは距離を取るようになっています(「アジアの片隅で」:1980年)。ミュージシャンとして反戦歌を歌うことだけが反戦行動ではない??

拓郎は自分が社会の中で、どういった立ち位置でいればいいのかについて、デビュー当時からけっこう周到に考えていたように思います。おそらく、かなり政治的な考えをもっているのだろうと思えるのだけれど、政治的な発言は控えているように思えます。多分。


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「いつも見ていたヒロシマ」にしても、それほど激しく反戦を歌っているわけではなく、どちらかというと祈りを捧げているようなムードがあります。アルバムバージョンも好きですが、下のライブ動画は完成度が高くて素晴らしいです。間奏のテナーサックスが深く心に沁み込みます。


社会派フォークシンガーとは違った「POPな脱学生運動路線」で支持を得た1970年代。しかし、1980年代になると世の中に急激に軽薄化の波がやってきます。相対的に拓郎は「重い暗い田舎臭いオヤジ臭い」と受け止められるようになってしまったように思います。私の回りにいた当時の同世代の学生ファンは拓郎離れをしていきました。
こういう背景の中、社会派作品でコラボをしようとする岡本おさみから、拓郎は離れようとしたのでしょう。岡本おさみとのコンビは「アジアの片隅で」以降は「月夜のカヌー」(2003)まで、極端に少なくなります。


しかし、次のアルバム「無人島で」(1981)でも結局「重い暗い」ままだった。松本隆を起用↓↓↓しても、暗いww

「白い部屋」(1981 詩:松本隆)の全歌詞はこちらを参照


横須賀の暗い港に ミッドウェーが入る

疲れた顔の 若い兵士が

泣きながら 泣きながら

人は兄弟だと デモ隊に叫ぶ

だってそれは、7時のニュースだもの

君がテレビの チャンネルを回したら

通り過ぎる事さ

このモチーフは「晩餐」(1973)に通じますね。

1980年代は漫才ブームに続いてとんねるずの快進撃が続き、社会は一気に「軽チャ―」ムードに包まれます。夕食時、深刻なニュースに飽きて、チャンネルを回せば「ザ・漫才」をやっているのが現状でした。

そんな自分(を取り巻く状況)に拓郎(岡本おさみ)は苛立っていたのでは?


いつも見ていたヒロシマ

八月の光が オレを照らし

コンクリート・ジャングル 焼けつく暑さが

オレの心を いらつかせる

いやせない みたせない なぐさめもない

深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて


オレはどこへ行こう 君はどこへ行く


時はおし流す 幾千の悲しみを

時は苦しめる 幾千の想い出を

焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる


子供らに オレ達が与えるものはあるか

安らかに笑う家は いつまであるか

いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ※


八月の神が オレを見つめ

コンクリート・ジャングル 逆らう日々が

オレの心を いらだたせる

笑えない 落ち着けない 安らぎもない

唄う敵と 唄う真実 見えない心をいだいて


オレはどこへ行こう 君はどこへ行く


時は忘れ去る 幾千のごまかしを

時は汚してる 幾千のやさしさを

焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる




2021年9月25日土曜日

吉田拓郎とロック ~「Live’73」は日本のロックの金字塔

 

吉田拓郎はロックなの?フォークなの?

 吉田拓郎はフォークの人として語られることが多いです。「フォークのプリンス」「和製ボブディラン」と呼ばれていた時期もあって、デービューからの10年ほど(1970年代)は戦略上、本人もことさらにそれを否定していたわけでもないようです。1970年代の日本ではまだまだ演歌・フォークが売れていた状況もあり、ロック音楽の需要が低かったのでしょう。1970年代の後半あたりでやっと「ニューミュージック」というあいまいな言葉で演歌やフォークと違う音楽が認識されはじめたというところでしょうか。

後々のラジオやインタビューで拓郎は、「自分はフォークではない」と度々主張しています。そう主張したいのはよく分かります。拓郎は日本の音楽シーンを演歌・四畳半フォークの流れからポップな方向へと変える大きな原動力になった重要人物であるはずです。であるのに関わらず、「フォークの人」みたいに語られるのは本人としては不本意だと思います。正当な評価が欲しいです。

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50余年の活動期間、ロックっぽい演奏やストリングスを取り入れた演奏やフォークギター一本での演奏など、様々な変遷がありました。広島時代の拓郎はロック大好き少年で、アマチュアバンドとしてロックを演奏していた時期もあったようです。デビューからの数年、「フォーク歌手っぽい売り出し方」をしていたのは、本人としてはあくまで戦略上のことだったのではないかと思います。それは、1973年にこのようなロックなライブをやっていることからも分かります。晩年のライブでは、直前にバックバンドと円陣を組んで「ワンツーロックンロール!」の掛け声を発しているシーンもありました。


そもそもロックって何だろう?

「じゃあ、そもそもフォークやロックの定義は何なのか」と聞いてみても、たぶん誰にもはっきりは言えないのではないかと思います。フォークギターを持って演奏していたらフォークだろうとかいう漠然とした決めつけもちょっと違う。ポピュラーミュージックがサブカルチャー扱いであるために、学問的な定義をされることはなかなか難しいでしょう。

拓郎はけっこうROLLINNGSTONESについて言及しています。「Brown Sugar」みたいな曲を作ってみたいとも発言していました。私はSTONESファンなので、拓郎がSTONESを愛でてくれると嬉しくなります。アマチュア時代に「Tell Me」を歌っていた音源もあり、もしかしたらビートルズよりも好きなんじゃないかと思ったりもします。


「じゃあ、何がロックなのか」と問われれば、私自身のイメージでは、こんな感じです。

シンプルではあるがメロディーが美しい・理屈抜きで突き抜けている・深層にある感情を引き出している・硬質・高揚感がある・衝動的・超絶テクニックが必要なわけではない・いわゆるロックンロールではない・ハードロックやヘビメタではない・ただのガチャではない・こなしていない・脳髄にダイレクトアタック!・不良・反権力・ストレイト・疾走感・荒涼感・神々しさ・狂気を孕んでいる

・・・あくまで私のイメージの羅列でしかないし、あくまで「ROLLINNGSTONES的なロック」という意味です。以降も、私の主観を述べているに過ぎませんよ(笑)。具体的に言うと以下のような曲がRockの名曲だと思っています。

◇Live with me/ROLLINNGSTONES◇アップタイト/矢沢永吉◇人にやさしく/Blue hearts◇Pump It Up/Elvis Costelo◇あばずれセブンティーン/浜田省吾◇あなたに/モンゴル800◇you know you love me/木村カエラ



◇The Promised Lands/Bruse Spring Steen◇気持ちE/RC Succession◇アンジェリーナ/佐野元春◇People Have The Power/Patti Smith◇Low Down/Boz Scaggs◇私は狂っている/吉田拓郎◇Modern Love/David Bowie◇港から来た女/甲斐バンド

・・・どれもドラムとベースが秀逸です。ただの「ガチャ」にならないように、シンプルなメロディーラインでロックを書くことは非常に難しいと思います。若さ(青さ)が必要なだけに、パーフォーマンスとしても、なかなか長きにわたって成立するのは難しそうです。STONESはROCKの名曲を長きにわたって生み出し、演奏してきたという点で、ポピュラーミュージックの中でも稀有な存在でしょう。普通は後世に残すほどでもない「ガチャガチャうるさい作品群」として、一部の人たちの記憶の中で終わってしまうことがほとんどだと思います。東京事変とかもパーフォーマンスとしてはスゲエと思うのだけれど、メロディーラインには限界(=突き抜けていない)を感じてしまいます。


Live’73はJapanese Rockの金字塔


前置きが長くてすみません。やっと本題です。それにしても「Live’73」は拓郎の作品の中で、燦然と輝くロックアルバムです。フォークやグループサウンズの流れを汲みながら洋楽のロックに何とか追いつこうと、試行錯誤を繰り返していた当時の日本のロック界。しかし、セールスに於いてもクオリティに於いてもなかなか追いつけない。Wikipediaの「1973年の音楽」を見ても、まだまだ演歌の力は強く、宮史郎とぴんからトリオがシングル「女のみち」・アルバム「宮史郎とぴんからトリオ」ともにオリコン1位、レコード大賞は五木ひろしの「夜空」。歌謡大賞は沢田研二が「危険なふたり」で獲得していますが、ザ・タイガースやPYGで目指したロック路線が完成度を極めた形とは言い難いでしょう。PYGの両翼であった沢田研二も萩原健一もSTONES的なロックをやりたくて仕方なかったのだろうと思うけれど、それにはまだ少し時間がかかる。供給側の理解と準備も、需要側の「ロックを受け入れる感性」もまだ追いついていなかったのだろうと思います。日本のロックの原点をはっぴいえんどやサディスティックミカバンドに求める人は多いのだけれど、STONES的なロックスピリットには欠けるのではないかな。

クオリティ面・セールス面共に「誰も到達できなかった高み」に最初に到達したのは拓郎の「Live’73」だと思います。このアルバムのスタッフは、当時としてはあり得ないような構成でだったのではないかと思います。高中正義のギターの凄さは勿論のこと、岡澤章(E.Bass)と田中清司(Drums)が実にカッコいい。この強力なバンドに加えてブラスとストリングスまで従えることができたのも、おそらく当時の音楽シーンが拓郎の才能に魅かれ、強力な磁場が発生していたのでしょう。「Live’73」には時代の空気感が刻まれていて、様々な「波」が共鳴しているように聴こえてきます。それまでの拓郎のライブのスタッフやアルバムの構成とは違います。このライブの半年前、拓郎の逮捕で事実上の解散となった新六文銭では決して出せなかった音であり、空気なのでしょう。

Wikipediaで「Live’73」を検索すると、アルバムの選曲から漏れている曲を知ることができます。選曲の際に拓郎が採用した曲と外した曲を考えると、このアルバムをロック色(黒っぽい)で構成したかったという拓郎の「思い」が見えてくる気がします。

「Live’73」の凄さにはこの時期に拓郎自身の私生活が大揺れしていることも多分に影響しているでしょう。ひとつ前のスタジオアルバム「伽草子」の制作辺りからの混沌とした流れが尋常ではない。下記↓↓↓リンク先も是非お読みください。
吉田拓郎アルバム「伽草子」に刻まれた時代の空気
デビューから「伽草子」前後に至る激しい渦に巻き込まれていく当時の拓郎が才能を炸裂すさせ、アルバム全体に狂気が漂っています。周囲(国家権力・家族・音楽業界)と対峙している様子が、チャンピョンベルト獲りに戦っている最終ラウンドのボクサーの様で滅茶苦茶カッコいい。スポーツをやっている時にハイになり、無になるあの感覚。「あしたのジョー」や「スラムダンク」の最終巻のような、あの感覚。
「春だったね」「君去りし後」「君が好き」「こうき心'73」「晩餐」のロックスピリットは特に「Live’73」の素晴らしさの核だと思っています(敢えて「落陽」は別格として外しました。STONES的ROCKとはまた別物扱いという事で・・・)。
アレンジ、演奏が素晴らしい。瀬尾一三がストリングス、村岡健がホーンアレンジを担当したと考えられるのですが、高中正義らのバンドのアイデアに加えて、拓郎の指示も相当入っていることでしょう(このライブは2日連続であり、「望みを捨てろ」など、拓郎の指示によって1日目と2日目でアレンジが一晩で変えられているものがある)。

そして何と言っても当時の若々しい拓郎の危うく暴発しそうなボーカルが、暗闇の中を疾走しているようなドライブ感を醸し出しています。「君がすーきーだ」と歌った後に「あー」と叫ぶ(実際は「あー」でも「ぎゃー」でも「がー」でもなく、日本語でも英語でもない、しいて言えば「あ」の濁音w)辺りは、人間のどうしようもない根源的な感情が込められています。

天才を極めていた拓郎に、複数かつ多数の条件があの日あの場所で重なって、珠玉のアルバム「Live’73」は「降臨した」と言っていいでしょう。神々しい。神だ。

「こうき心」はデビューアルバム「青春の詩」ではフォーキーなアレンジで収められています。「Live’73」では、これを「こうき心'73」として見事なロックテイストに変換して演じています。「Live’73」は拓郎のキャリアの最高点(多分)「つま恋’75」に至る上り坂において最高の加速エネルギーを放ったアルバムだったと思います。


ロックでなくても

「Live’73」以降のアルバムでも様々なロックテイストの曲を作り、ライブでもロックアレンジで演奏してきた拓郎ですが、「Live’73」のようにSTONES的ROCKの高みにまでは届いていないと思います。特に、1974年のバックバンドのドラマー、浜田省吾には荷が重かった(笑)。いや、どれ程素晴らしいミュージシャンを集めようと、拓郎本人さえ「Live’73」を超えることは難しかったのだろうと思います。それはそれで仕方ないでしょう。拓郎には拓郎的音楽があるわけで、常時STONES的ROCKを期待することに意味はありません。

個人的にも拓郎がロックテイストを出そうとするのをそれほど好んでいるわけではありません。「この曲は何もそんなにラウドネスな演奏でなくてもいいのにな」と思うことも多々あります。そんなに拓郎にロックテイストを求める必要はないでしょう。多数の拓郎作品にみられる独特のメロウでメランコリックな部分を活かすには、必ずしもロック調の演奏が合っているわけではないと思います。拓郎作品にはワルツもボサノバもレゲエもあります。拓郎メロディーは日本情緒が強くて、しっとりとしたストリングス中心のアレンジの方がしっとりとして向いていると思います。2000年~2010年の間のライブの瀬尾さん率いるビッグバンドのストリングスアレンジはとても心地いいです。(そういう意味では、「LIVE73」でバックにストリングス隊&ブラス隊がいたことも凄いですね。)

ラストアルバムがどのような内容であるにしても、それ以降の本人によるパフォーマンスはあまり望まれないようです。今後、魂のこもったカバー、多様なアレンジによるカバーが生まれることを望んでいます。勿論、ロックテイストは大歓迎ですし、こんな↓↓↓感じのアプローチも、いい。拓郎自身もこのカバーには感心していました。
アン・ドゥ・トロワ / キャンディーズ【Cover - Kitri】from AL. 

いずれにせよ、吉田拓郎を「1970年代の引き語りフォークの人」という安易な位置づけにするのはやめて欲しいです。無理な枠組み(ジャンル)に押し込めるような評価はやめて欲しいです。「人間なんて」~「結婚しようよ」~「襟裳岬」~「1975年つま恋」という”雑でありがち”な語られ方は残念です(つま恋で終わりではないし!)。「Live’73」が日本のロックの金字塔であることを認めると同時に、フォークや歌謡曲やニューミュージックといった枠組みに囚われない「ミュージシャン吉田拓郎」が正当に評価されることを切に望んでいます。

下記↓↓↓の関連記事も是非、ご参照ください。

吉田拓郎「望みを捨てろ」の謎を追いかける
吉田拓郎「落陽」について

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2021年6月26日土曜日

吉田拓郎「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」~そこってどこ 【 恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.2】

あまり関心はなかったのだけれど

アルバム「吉田町の唄」(1992?)の曲、「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(以下、「チンチン」)について、考えてみる機会を得ました。

実は「チンチン」を聴いた1992年は「また御大が何かエロそうな詩を書いてるわ」ぐらいの認識で、何も考えずに聞き流したままでした。下品な「チン」の連呼に嫌気がさして、ほぼスルーでした。「チンチン」が「よく冷えている」という意味の形容詞であったとしても、何もそんなに「チン」を連呼しなくてもよいのにと。自分の中では1980年以来、年を追うごとに残念感を増してゆく拓郎を象徴する曲の一つでした。

それから30年足らずの歳月を経て、SNSでのやりとりをきっかけに、初めてじっくり詩を読んでみる機会を得ました。詩に描かれる情景や当時の拓郎の想いを想像するうちに、メロディーも含めて「チンチン」は好きな曲になりました。

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それにしても、「チンチンチン」でなければ、コカ・コーラボトラーズも採用してくれたかもしれません。やらかし気味な言動が多い拓郎。ファンとしても、もう少し抑えて欲しかったです。何もこのエロい詩の曲名に「チンチン」をぶっこむことはなかったのに。"Coca-Cola is on my side"  とか何とかでとどめておくことはできなかったのでしょうか。

コカコーラ社からの要請を受けて作曲したわけでもなさそうなのも悲しいです。それほどにコカコーラがこの曲になくてはならないアイテムとして存在しているという事なのか、それともいつもの気まぐれなのか。拓郎はコーラやコーヒーが飲めなかったという情報もあり、「なんじゃそりゃーーー感」も。蓮舫議員の名セリフではないですが、「ペプシじゃだめなんですか」と言ってみたくもなります。矢沢永吉は「YES MY LOVE」を「YES COKE YES」と替えて、1982年の コカ・コーラ CMイメージ・ソングを歌ったのに・・・


あまり関心はなかったのだけれど、エロいわぁ

拓郎の作品には性愛について書かれた曲が多く、そのほとんどに直接的な表現が使われています。
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運命の口づけで 言葉をふさがれ
もどかしい昼下がり 「暑いわぁ」

  「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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拓郎がこの曲の中で懐古しているのはおそらく、青春時代、1970年前後の話(イメージ)だろうと思います。エアコンはなく、下宿のような安い部屋での出来事でしょう。若い二人は暑い夏の昼下がり、暑い部屋で二人きりになり、初めての日を迎える。女性側は
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地図にない海を旅する 映画みたいな二人になりたい
  「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」(1992)
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と、けっこうロマンチックな夢を見ている。男性側は、どうだったのでしょう。かなり、たぎっていたのでしょうね(笑)。いや、プレイボーイの拓郎にとっては2人きりの状況を作るのは手慣れていたのかもしれません。
もちろん甘い口づけでは終わっていないのでしょう。ふさがれた言葉は、「いやよ」の様な気がします。「いやよ」と言いながらも「もどかしい」と言っているのだから、女性側も元々まんざらでもない。揺れる心。
男の側は「暑いのだったら・・・・・・」と、口説きそうですw
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稲妻が胸を貫く 結ばれてどこへ飛び出そう
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と、女性にとってはけっこうな衝撃だったようです。もしかしたらロストバージンだったのかもしれません。「痛いわぁ」って書いてあるし。それにしても「痛いわぁ」って直接的過ぎる表現じゃないですか??・・・痛いのは心も、でしょうね。


それは、どの程度本気だったのでしょう

ここで疑問が残るのは、拓郎がこの詩を書いた動機です。この出来事がどこまで本当なのかは本人達だけが知っていることだろうし、もしかしたら全部拓郎の妄想、作り話なのかもしれません。いずれにしても若い時の性的体験は
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忘れないでねぇ
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と、過去の想い出となるケースが多いのでしょう。2人は結婚へとは向かわなかったのでしょう。(いや、もしかしたら四角佳子さんとの話の可能性もある??)
男性(≒拓郎)にとってこの恋がどの程度本気だったのか、あるいはどの程度遊びだったのか。若い時期、ほとばしり先走る性欲によって、本当にそこに愛があったのかどうかわからなくなるというのは男性あるあるです。いずれにしても、拓郎本人が3度の結婚という長い歳月を経て回想していることを考えると、拓郎にとっても何か心に残る「情」を引きずっているのかもしれません。
私は多分、「忘れたくないのは主人公の女性でなく拓郎なのかも」と思っています。この「チンチン」を聴いてから30年を経てそう思っています。拓郎が過ぎてしまった恋、実ることのなかった恋をただ懐かしいというだけではなく、愛おしく感じているように聴こえています。たとえ「ちょっと遊びの恋」であったとしても。もしかすると、この女性より男性の方がロマンチストなのかもしれません。
まず2度と会うことはない人、会えたとしても再び何をするわけでもない人って、どんどん増えていきますよね。「そういう事があった女性」に限らず。
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愛した人もいる
恋に破れたこともある
なぐさめたり なぐさめられたり
それもまた大きな一瞬だった
  「街へ」(1980)
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この
作品↑↑にもつながるような気がします。
「忘れないでねぇ」が妙に切ないです。私も年取ったなあ。


「いつも」とは?「そこ」とは?

「チンチン」の曲名の中に「コカコーラは『いつも』あった」とあります。非常に現実的に解釈するなら、冷蔵庫が行為をしている現場のすぐそばにあったから、いつも「チンチンチン」と冷えていたと考えるのが順当でしょう。二人は行為の後に、スカッと爽やかにコカコーラを飲むのが習慣になったのかもしれません。
もう少し広義に妄想wすると、
こうした拓郎の青春の数ページには、この「チンチン」の女性との場面だけではなく、その他の女性との場面にも「コカコーラ」が「いつも」「そこ(現場)」にあるイメージなのかもしれません。
もっと広義にとらえると、
青春の1ページには(女性との行為の場面に限らず)、「いつもコカコーラが」「チンチン」に冷えて存在していたというイメージなのかもしれません。それこそ、「コカコーラ賛歌」ですねw
もしかしてだけど、
エアコンも内風呂もなかった当時の若い世代の住居。作品から
性的な行為の生々しさを消すために「スカッとさわやかコカコーラ」の清涼感を利用したのかもしれませんww

いずれにしても、何故か穏やかな拓郎が見えるような気がします。「チンチンチン」というかなりふざけた表現の仕方も、心のどこかに引っかかっていた過去の女性に対する罪悪感を、遠い目で見て笑って許しているようにも聴こえてきます。


過去は「いつまでも」「そこ」にある

このアルバムでは「夏・二人で」に感銘を受けていたのだけれど、最近は「チンチン」とセットで感銘を受けています。
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暑い夏の真夜中に 僕たち突然気がつく
だるい身体を畳の上に 危なっかしく投げ出したその後で 
ひっそりと ひっそりと できるだけ ひっそりと

  「夏・二人で」(作詞・作曲:及川恒平 1972)
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若く危くひそやかで儚い夏の日の恋。これは「夕立」(1973)の時代にもつながる世界でしょう(作詞は岡本おさみ)。エアコンもない部屋でひっそりと暑い熱いことをして、一通りが終わってから、「そこ」で、仲睦まじくコカコーラを二人して飲む姿は、なんか微笑ましいです。

この曲が入ったアルバム「吉田町の唄」はラストの曲で、ついに「僕」は「昔の女」に呼び出されます。
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少しはぐれたけれど 今日まで生きてきたよ
少しねじれたけれど 今日まで生きてきたよ
僕を呼び出したのは さがしものがあるの
僕を呼び出したのは どこかへ行ってみたいの

  「僕を呼び出したのは」(作詞:石原信一 1992)
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長い歳月を経てしまった二人は、たぶん探し物に手が届くことはないだろうし、どこへも行けない気がします。

「君」がいないまま過ぎてしまった日々の重さはどうにもならないのでしょう。動かしようがない。でも、「そこ」に置いてきた「愛」や「情け」たちは、今もなお、「いつまでも」「そこ」にあるような気がしています。(これは、筆者の考えです😊)


2021年6月19日土曜日

吉田拓郎「結婚しようよ」におけるフラットな男女関係 【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.1】

1971年

最初に断っておきます。私は文化人類学者、その他の学者ではありません。以下に書くことはただの一般人の思い付きレベルの「吉田拓郎×結婚論」です。
吉田拓郎について語られる場合、一般的には最初のヒット曲「結婚しようよ」とレコード大賞受賞曲「襟裳岬」が取り上げられることが多いことはもう、仕方がないかと往年のファンである私は諦めています。


この2曲が素晴らしい曲であることは私も大いに同意します。一方で、この2曲ばかりに話題が振られてしまうので、もう少し他の曲にもスポットライトを浴びせて欲しいなあと思ってしまいます。とかいう事情はおいといて・・・ブツブツ。


「結婚しようよ」が世に出たのは1971年、その前年、世の中では1970年には見合い結婚と恋愛結婚の数が逆転しています。
閉鎖的な地域社会・農耕社会から脱出する自由がなかった時代は相当長く続いたようです。1960年代ぐらいまでは、婚姻の自由度はかなり低かったのではないかと思われます。村全体の姓が(例えば)「竹本」であるなど、運命共同体としての「せまい範囲でのほぼ身内・既知の間での結婚」が当たり前だったと聞いています。「結婚は本人同士がするのではなく、家と家がするものだ」などと、私の両親(昭和一桁世代)はよく言っていました。格差婚は避けられることが多く、「近所のお見合い叔母さん」に勧められた相手を受け入れることが無難な生活を続けるコツだったのかもしれません。


自由な結婚、フラットな男女関係

第二次産業や第三次産業の発展と共に都市部への人口流入が加速するとともに、日本的な男尊女卑社会の変革が求められてきます。そんな状況下で、「自由な人、吉田拓郎」が日本のポップシーンに出現します。

「男子、厨房に入るべからず」と言った価値観が支配的であった1971年の段階で、彼はこう歌います。

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僕の髪が 肩まで伸びで
君の髪と 同じになったら
約束通り 街の教会で 結婚しようよ
  「結婚しようよ」(1971)
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今の世の中から見れば、「普通じゃん」で片づけられそうな歌詞ですが、おそらく当時の地方の結婚観をひっくり返すような歌詞であったのだろうと思います。そもそも「男が髪を伸ばす」ことについては、小学生だった私でさえ違和感がありました。
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髪と髭を 伸ばして
ボロを着ることは 簡単だ
  「ビートルズが教えてくれた」(1973)
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当時の私たち小学生にとって髪を伸ばすなんてことは、仲間外れを覚悟せねばならないぐらいの危険行為でした。中学生に至っては男子は丸刈りがデフォルトであった時代です。
こんな時代に「君の髪と同じ」になるぐらいまで髪を伸ばした挙句に結婚って、自由過ぎます、素敵です。
しかも、「街の教会で」っていうのも、規格外です。明治の廃仏毀釈から太平洋戦争時代に至るまで神社が世の中を支配してきていて、まだこの時代はその余韻が残っていたのでは?花嫁衣装たるものはあくまで和装(白無垢とか角隠しとか)であり、洋装(ウェディングドレス)は「お色直し」としてのオプションであったと私は理解しています。
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白いチャペルが 見えたら
仲間を呼んで 花を貰おう
  「結婚しようよ」(1971)
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仲間を優先している感。「親は?親族は!この親不孝者めが!!」と、なってしまいそうな情景描写です。自由過ぎて、素敵です。実際、拓郎はこの年の6月に長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子さんと結婚式(一度目)を挙げました。
親戚家族・勤め先を巻き込み、しがらみの世界に巻き込まれる「儀式としての重い結婚観」をこういともたやすく軽いタッチでいてしまう拓郎選手に、当時の若者は拍手を送ったのだと思います。(※実際に親族を呼んだかどうかは知りません)
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二人で買った 緑のシャツを
僕のおうちの ベランダに並べて干そう
  「結婚しようよ」(1971)
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ちょっと待て、ベランダって何?(笑)
私の家(そこそこ都会)には「物干し」しかなかった。地方であれば洗濯物は庭干しだったのでは。多分、全国的にそうだったと思います。それを「ベランダ」って欧米か?
素敵すぎます。
※「物干し」には普通に平気に下着が干してあり、けっこう衆目に晒されていました。いや、男子としては平気ではなかったかも(笑)。
ベランダに干してあるのはもちろん下着ではなく、「緑のシャツ」です。素敵です。
「緑のシャツ」がTシャツなのかポロシャツなのか普通の前開きボタン付きのシャツなのか、イメージは固まらないです。当時は雑誌「POPEYE」(1976~)も「HotDog」(1979~)も発売されておらず、男子のオシャレなんてまだまだ下火。当時のファッションを考えるとあまり緑のシャツはクールなイメージにはならないです(笑)。あくまで、70年代初頭のファッション。それでも、「二人で買った緑のシャツ」なのです。女の子と2人でペアルック(死語?)を買いに出かけるという超オシャレな生活様式です。当時としては夢のような世界です。羨ましいです、軟弱です(笑)。
まだまだ、1970年の男子は角刈りで命を懸けて「柔道一直線」なのです。でなけりゃ、七三分けに黒縁眼鏡です。バンカラでなくっちゃ、まじめでなくっちゃ。


髪の毛を女性にあわせ、シャツを2人で買って、並べて干す。こうした「結婚しようよ」の世界観はフラットな新しい男女関係を示していると思います。当時、この世界観はとっても新鮮で斬新だったのではないかと想像します。ちゃぶ台返しという吉田拓郎選手の得意技です(笑)。
拓郎が幼少期に体が弱く(体育会系ではなく)、父親不在の女性の多い家庭で育った影響もあり、男尊女卑から少し遠い環境にいたことがこの曲の世界観に反映されているのではないかと思います。

完全にフラットなのか?

フラットな男女関係、自由な二人の世界。拓郎は「明るい自由な世界」にこだわり続けてきました。
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僕らは今も自由のままだ
  「AGEIN」(2014)
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自由を追い求めると、自分の自由を主張する分、他人の自由も守らなければなりません。
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みんな幸せになっていいんだ
人に迷惑さえかけなければね
  「ビートルズが教えてくれた」(1973)
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そういう意味では、家族(伴侶)である女性の自由を保障しない事には「自分の自由」は成り立たなくなってしまいます。「戦に行く代わりに男の我儘は許されるべきだ」という時代が終わり、「男が主な働き手であるのだから男の我儘は許されるべきだ」という時代も終わってゆきます。そこに、拓郎、そして昭和後期~令和の時代に至るまでの「戦後男子」の葛藤と苦悩が繰り広げられることになるのです。
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恋をするなど それこそ不自由で
仕組みやルールや 女のモラルなど
あければ勝ち誇った 女の素顔
あなたは いい人ね さようなら
  「わけわからず」(1978)
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と、拓郎殿、1970年代末にはだいぶ混乱の様相を示しています。「結婚しようよ」で提示した「フラットな男女関係」を「日常に於いて完成させること」は団塊世代である拓郎にとって、世代的な限界もあったのだろうと思います。四角佳子さん・浅田美代子さんとの結婚生活には「あくまでフラットな関係性」と「やっぱり亭主関白な様相」の両方が見え隠れしているように思います。

陽と陰・躁と鬱

拓郎は大学時代に応援団という男臭さの象徴の様な組織に属していました。どちらかというと喧嘩っ早い武闘派ミュージシャンというイメージで語られることが多かったです。
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拓郎って酔うと陽気になるんだねって
君に教えられたよ
そう言えば 君はいくつだったっけ
僕のイメージってそうらしいよ 女の子の間では
陰気で怖いんだってさ
  「Y」(1981)
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誰も皆、二面性を持っていると思います。拓郎はかなり多面的です。
「結婚しようよ」は拓郎独特の「躁状態」を表す曲で、どちらかというと少数派です(他には「たくろうちゃん」(1971)「あの娘といい気分」(1980)とか?)。
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もうすぐ春が ペンキを肩に
お花畑の中を 散歩に来るよ
  「結婚しようよ」(1971)
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「結婚しようよ」のようにメランコリックな要素(哀愁感)がほぼない拓郎の曲は珍しいのでは?
浅田美代子との結婚生活を歌ったと言われる「カンパリソーダとフライドポテト」(1977)は美代ちゃんが怒るほど、哀愁に満ちています。

どちらかというと拓郎の作品には鬱・哀愁が含まれている場合が多いと思います。なので、「結婚しようよ」が代表曲として取り扱われ続けることはちょっと違うかなと言うのが往年のファンとしての私の気持ちです。「結婚しようよ」は拓郎作品群に於いて最初のスマッシュヒットでしかなく、その後、怒涛の実生活と実生活を反映した作品が続きます。「お花畑の中を散歩」が時には「イバラの道を蹴散らかし」みたいな様相になることもたびたびありました。拓郎の恋愛観・結婚観・性愛観は時代の変化とともにあり、団塊以降の世代が抱えてきた悩ましさを表すある種のサンプルになっているように思います。
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あければ勝ち誇った 女の素顔
  「わけわからず」(1978)
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男性の育児休業取得を促進するために提案された改正育児・介護休業法などが令和3年6月3日、衆議院本会議で可決され、成立しました。令和3年のドラマ「リコカツ」は地味ながら支持を得ています。
「結婚しようよ」から50年、令和の時代となった今、「男女共同参画社会」の実現はそこそこ果たされたのか、まだまだ道半ばなのか・・・

2021年5月31日月曜日

「青春の詩」吉田拓郎の正直 ~デビューでいきなり●●●【恋愛と婚姻と性愛と拓郎 vol.0】

いきなり”SEX”

「青春の詩」(1970)は吉田拓郎のファーストアルバムであり、アルバムからのシングルカット曲で、アルバムの1曲目に位置しています。


本人作詞のこの曲、のっけから長い(6分19秒)。一連は三行からなり、十九の連の最後の行がどれも

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ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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となっています。

フォークソングにしびれてしまって
反戦歌を歌うこと
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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の次の連で

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SEXを知り始めて大人になったと
大喜びする事
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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と、お書きになりなさる。こんな2連を並列するところが、なんとも拓郎らしい。SEXというワードをそのまま直球で歌詞に投げ込んでシングルカットまでしてしまうというどストレートな態度は、「1970年の世間」であればキワモノ扱いに近かったのではないでしょうか。当時のお堅い世相的にはかなり型破り・掟破りだったのではないかと思います。あまり正面切って性的な話をメディアで口にするのは憚られていた時代です。加藤茶の「タブー」も、「エマニエル夫人」もまだ浮上してきてはいません。その上、SEXについてのみならず、その直後の連でも、
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親に隠れて酒煙草睡眠薬
果ては接着剤シンナー
ああ、それも青春
  「青春の詩」(1970)
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とおっしゃる。この1970年代当初に色とりどりの19連をよくまあ並列してみたよなと思ってしまいます。
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僕たちは大人より時間が多い
大人よりたくさんの時間を持っている
大人があと30年生きるなら、
僕たちはあと50年生きるだろう
  「青春の詩」(1970)
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と、大人を挑発するようなことも言っています。真面目な中学生であった私はこれちょっと不謹慎じゃないのかと思いました。当時から50年以上が経ちましたが、もし50年を待たずに拓郎が亡くなっていたら、「そんなこと言ってるからだよ」と言われるんじゃないかと心配していました。よかったね、拓郎。
ついでに「老人の詩」(1971)という替え歌も作っていて、敬老派の私としては、罰が当たるのではないかとドキドキしていました。
吉田拓郎の魅力は、こうした直線的な言動なのでしょう。普通は言わないことを言ってしまう、やってしまう。言いたいことを言って、歌いたい歌を今歌ってしまうのが拓郎です。フツーの人は普通のことだけ口にして普通に過ごす。本音なんてなかなか言いません。波風を立てるのを面倒くさがるものです。
タブーや掟を正面突破すれば過剰なレスポンスを受けることになります。

暴風の中、船が進むがごとくであった拓郎の1970年代、どれだけたいへんな状況であっても突き進んでしまう性向が半端ない。
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人生と言う船が進むよ
海が荒れても風が病んでも 帆を張って
  「帰らざる日々」(1980)
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「青春の詩」の結びでこのように語ります。オチャラケながらも、最後にはこうたたみかけます。
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この貴重なひと時を僕たちは
何かをしないではいられない
この貴重なひと時を僕たちは
青春と呼んでもいいだろう
青春は二度とは帰ってこない
  「青春の詩」(19
70)
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何かをしないではいられない衝動性。何が拓郎を衝き動かしていたのか。おそらく拓郎の先天的な要素によるところも大きいと思います。これについてはまた他の稿で書いてみたいです。

時代を映しだす鏡

下の歌詞も衝動的ですw
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とても素敵だ君 暗闇を探そう
でなきゃ 安いベッドで
そして キスして遊ぼう
それから あれも
  「からっ風のブルース」(1973)
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これもまたアルバム「伽草子」(1973)の1曲目です。作詞は岡本おさみさんではあるものの、これを1曲目に採用してしまうアグレッシブな拓郎。世間一般の「恋愛観・結婚観・性愛観」と矢面に立って対峙する羽目に。ある意味、1970年代は日本の性革命が進んだ時代で会ったと思います。アンダーグラウンドの存在であった「性」を表舞台へと浮上させるのに、図らずもかなりの貢献?をしてしまったのではなかろうかと。
このアルバムの前後も拓郎の周囲には大きな渦がひしめいていて、まさに渦中、火中の人でした。
「伽草子」前後の話については、
でも書いてみましたのでご参照ください。伽草子の後に訪れる離婚~再婚への流れはさらに混沌としています。
「青春の詩」に始まる(実際は「イメージの詩」がプロデビュー曲)長い音楽活動と実生活の中で、拓郎は恋愛に、結婚(婚姻)に、性愛に、どストレートを投げ続けることになります。ある意味、拓郎は時代を映しだす鏡の様な役割を担っていたのかもしれません。
1970年は奇しくも見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転した年でもあります。都市化が進み、性の解放が進み、女性解放運動も進みました。ウーマンリブとか、かなり過激な運動もありました。「歌は世につれ世は歌につれ」といいます。拓郎が残した楽曲群とその足跡は、団塊世代がイニシアティブを握った1970年~1990年あたりの民衆の恋愛観を知る上で、文化人類学的にも研究に値するのではないかと思います。知らんけど。
中高生として1970年代後半のオールナイトニッポンを聴いていて、本当にこの人、好きな事(そしてエロい事)言うなあと、半ば感心し、半ば呆れていました。
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蹴飛ばしちまえ 吹き飛ばしちまえ
人が勝手に作った レールをはみ出せ
気ままに歩け
  「王様たちのハイキング」(1982)
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良い意味でも悪い意味でも、何かとやらかし気味でしたね。「やらかす人・吉田拓郎」の異名を今、私が付けました(笑)。

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違うかww
いやあ、本当に拓郎さんのおかげで私も色々とやらかしちまったです。
1970年代の拓郎はまさに神がかり的な活躍をしたため、言動への反動を受け止めるのが大変だったろうと思います。あまりにやらかし、あまりに波風が立ち過ぎて1970年代末にはさすがに本当に疲れ果ててしまったのでしょう。拓郎は
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もしも、僕が間違っていても
正直だった哀しさがあるから
  「流星」(1979)
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と、歌っています。「青春の詩」から約10年で哀しくなり始め、約50年後の2019年に最後のLIVEでセミリタイアとなります。本当にお疲れさまでした。
東京を中心とする若者文化の渦中にいた拓郎が「恋愛・結婚・性愛」といった若者のメインテーマをどのように眺め、どのように行動したのかをささやかながらも記してゆきたいと考えています。特に、性愛方面に関してはなかなか語られることもないかと思いますので、私も掟破りで書いちゃおうかと考えています。
PS.
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ジュリー、ショーケン、きんちゃーん
・・・・
ああ、それが青春
  「青春の詩」(1970)
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も、茶目っ気ありますね。既にこの3人が誰の事なのかも、若い世代には分からなくなってしまっていることでしょう。


ジュリーとは数回の対談を手いますし、拓郎が欽ちゃんバンドに出演したこともあります。ショーケンには「美わしのかんばせ」を提供しかけてポシャッたことがあるぐらいが接点でしょうか。ショーケンもジュリーも「やらかす人」でした(警察沙汰複数回)。警察沙汰はやめて欲しいですが「やらかす人」、大好きです。

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